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2016/02/25

望郷


  • 1937年フランス映画
  • 監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
  • 主演:ジャン・ギャバン/ミレーユ・バラン


 いま、銀座シャンゼリゼで開催されている「大いなるフランスの遺産」特集の中の1本、「望郷」を見てきました。

 冒頭に、75周年シャルル・ジョルダン・シネマコレクションとあって、ロビーには、リタ・ヘイワースの写真と、彼女がジョルダンに特注した、靴の写真も飾ってありました。上品で、セクシーな靴で、彼女には、ピッタリだなあと思いました。

 そう言えば、この作品の監督、ジュリアン・デュヴィヴィエは、ヘイワースとヘンリー・フォンダが共演した、「Tales of Manhattan」1944年も撮っているのでした。

 「望郷」1937年を見たのは、これが初めてです。かまやつひろしが、カッコいいアルバム「ゴロワーズ」で、ジャン・ギャバンのことを歌っていて、ぜひ見なくてはと思っていた作品です。原題は、「ペペ・ル・モコ」。邦題が、「望郷」です。見終わった後、この邦題が、いかに秀逸かに気付きます。

 ジャン・ギャバンは、本当にいい男だなと、見惚れていました。空の酒瓶を手に取って、俺と同じように空っぽだと、と呟くところなんか、カッコいいという言葉しかありません。ギャバンは、パリ生まれですが、彼の演じる、ペペも、パリに生まれ、パリをこよなく愛する男です。ミレーユ・バランと、パリの地名を挙げる場面に、それが如実に現われていました。ペペは犯罪者で、アルジェリアの迷路のような場所、カスバに逃げ込んでいますが、パリを象徴するバランに出会うことによって、パリへの思いをかき立てられ、無謀にも、安全なガスバを抜け出し、パリへ脱出しようとします。カスバは、ペペを守ってもくれますが、同時に、ペペを閉じ込める檻でもあります。ペペにとっては、パリは、自由そのものなのです。自由を求めて、船に乗り込む、ペペ。だから、最後に警察に捉えられたとき、束縛を意味する牢獄よりは、死を選ぶのでしょう。

 ペペの「ギャビー」という叫びが、船の汽笛にかき消されるとき、「男の美学」の全てがありました。

1995/05/22

パニック


  • 1947年フランス映画 2/9NFC
  • 監督/脚本:ジュリアン・デュヴィヴィエ
  • 撮影:ニコラ・エイエ 音楽:ジャン・ヴィエネール
  • 出演:ミシェル・シモン/ヴィヴィアーヌ・ロマンス/ポール・ベルナール


 このジュリアン・デュヴィヴィエの映画はフランスの人気監督、パトリス・ルコントによって翻案されている。

 その映画『仕立屋の恋』は僕がまだルコントに興味を持っていた頃に観た映画で、好きな映画だ。『仕立屋の恋』には主人公を思いやる刑事の姿が印象的に描かれていてまだしも救いもあったが、この映画はその救いすらも否定している。ラストを飾るのは皮肉にも、この世界の人たちはやがてみんな手を結び合うだろう、恋は美しく、素晴らしいというシャンソンだ。そのシャンソンの中をこの世で最も孤独な男の死体が車で運ばれて行く。

 見る者と見られる者との関係、端的に言えば覗きが『仕立屋の恋』の中心にはあったが、『パニック』も覗きという行為をその中心に持っている。

 三島由紀夫の『午後の曳航』の中で少年は母親がオナニーをするのを覗き見る。そこで注意しなければならないのは、その行為において少年はエロスの世界から決定的に拒絶されているということなのだ。覗き見るとき、人間は目だけの存在になる。言い換えれば認識する存在になる。見ること、認識することがその人間の全てになる。認識ほどエロスから遠いものがこの世にあるだろうか?少年はエロス的世界の住人である青年の肉体を切り裂いて殺すが、少年はエロスには達しない。少年が青年の肉体を切り裂くのは母親とセックスする青年の肉体の秘密を見るためなのだと『午後の曳航』を解釈することもできるだろう。少年は見る存在、認識する存在であり続ける。エロスは壁の向こう側に在り続ける。

 覗きは認識的人間をエロスへと駆り立てるが、同時に覗きは認識的人間をエロスから徹底的に隔てる。認識的人間は世界を見る者であることによって、世界の外に存在する。認識的人間は世界に属さない。ジャン・ルノワールが絶賛した俳優ミシェル・シモンによって演じられる中年男は母親からさえも愛されたことがないと静かな悲しみを漂わせながら言う。だかそれは当然なのだ。いったい誰がこの世界に属さない者を愛せるのだろうか?認識的人間はこの世で最も愛から遠い。

 認識的人間がエロスに向かうとき、そこに待ち受けているのは、滑稽さか悲劇だ。『パニック』は滑稽な悲劇に向かってまっしぐらに突き進む。
 『パニック』の主人公である認識的人間が写真を趣味にしているのはあまりにも出来過ぎている。見ることが全てである人間に最も相応しい趣味。認識的人間は殺人現場を目撃しても、行為すること無く、シャッターを切る。

 パリの群衆が主人公を追い立て、やがて死に至らしめるのはたぶん正しい。見ることはたぶんこの世界で最大の悪なのだ、と言ったらあまりにもロマンティック過ぎるだろうが、そう言いたくなるものを『パニック』という優れた映画は持っている。

1999/02/09

商船テナシチー


  • 1934年フランス映画 1/16NFC
  • 監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ 脚本:シャルル・スパーク
  • 撮影:ニコラ・エイエ 音楽:ジャン・ヴィエネール
  • 出演:マリー・グローリー/アルベール・プレジャン/ユベール・プレリエ


 港町ル・アーブルを舞台にする実に魅力的な映画だ。

 光と音楽に満ち溢れた島で半裸の男女が抱き合う。冒頭は映画館で上映されている映画から始まる。"FIN"とクレジットされ、人々が映画館から出ていく。これは映画なのよ、嘘の話なのよ。観客の一人の言葉を中心にして、スクリーンには「天国」に代わり、雨の夜のパリが映し出される。絶え間なく降る小雨に濡れながら歩く二人の職の無い青年労働者。クロース・アップされる不審気な警察官の顔。労働者の一人がいま観た映画に誘われたようにカナダの話をする。新天地がそこにある。ある会社が呼び掛けているカナダの開拓に応募するんだ。

 二人はカナダへ行く決心をする。"le depart"(出発)という言葉が輝きを持って発せられる。"le depart"(出発)という言葉は二人をその言葉が最も相応しい港町へと連れていく。

 港町は魅力的だ。なぜなら港町は人に出発する自由と止まる自由という二つの最も大切な自由を与えるからだ。最後に二人の青年はそれぞれ別の自由を選ぶ。パリへと向かう線路とカナダへと向かう海が交互に映し出される。その時ジュリアン・デュヴィヴィエ監督は両方の自由を愛しているように思える。両方の自由を愛する人だからこそ、港町に拘るのだ。

 夢のような素敵なシーンがある。出帆の前夜二人の青年は酒場で浮かれ騒ぐ。一人の青年が歌いだす。アコーディオン弾きが音楽を付ける。酒場の楽しい雰囲気に誘われて酒場を囲んだ通りを歩く人々が合唱する。それはまるでジュリアン・デュヴィヴィエ監督の場末の港町に対する賛歌のように聞えた。僕はこんなシーンに弱い。

 夕焼空を背後にシルエットになった小舟がスクリーンを斜めに横切る。『商船テナシチー』にはジュリアン・デュヴィヴィエ監督のロマンチシズムが漲っている。シャンパンと月と砂浜とダンス。たぶんこの世界にはそれだけがあればいいのだ。

 行く当ての無い二人の無職の青年労働者を主人公にしながら、この映画は暗さを印象として与えない。心に残るのは瑞々しさだ。その瑞々しさはたぶんル・アーブルという港町が与えるものなのだろう。

1999/01/16