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2016/03/10

内なる傷痕


  • 1970年フランス映画 6/10シネ・ヴィヴィン・六本木
  • 監督:フィリップ・ガレル
  • 音楽:ニコ
  • 出演:ニコ/ピエール・クレマンティ/フィリップ・ガレル


 無音の石でできた白い空間が提示される。そして風の音が聞える。風の音はなにかを語りかけてくる。ニコの声。"Where do you take me ?"。足音。

 次のシーン。地平線が見渡せる乾いて干からびた平らにどこまでも広がる地面。足を前に投げ出し座り込んだニコ。"I can't ."。ニコの発音は硬く、ニコの叫びは「コーント」と聞える。その響きは心を打つ。

 シーンが切り替わる。凍りついた道を歩く足音。その足音には耳を惹き付ける魅力がある。

 そして洞窟のシーン。ニコはドイツ語で語る。ニコのドイツ語の響きに耳を傾けるとき、その言葉は神に対する言葉であることが理解できる。

 英語、ドイツ語、フランス語。三つの言語がこの映画では使われる。

 図式的になる危険を冒して言えば、英語は人間と人間が語るときに、ドイツ語は人間と神が語るときに、そしてフランス語は大人と子供が語るときに使われる。

 大切なのはそれらの言語の持つ響きに耳を澄ませることだ。英語の響きの中には苦悩が、ドイツ語の響きの中には厳粛さと敬虔さが、フランス語には優しさと慈しみがある。

 地球から来たと自分を述べる人間と語るとき、ニコはあるときはドイツ語を使い、あるときは英語を使う。
 ドイツ語が使われるとき、ニコとその人間との関係は人間対神の関係になり、英語が使われるとき、ニコとその人間との関係は人間対人間の関係になる。

 関係の多様性が、ニコとその人間を豊かにしている。あるいはニコとその人間が図式に収まることを逃れさせている。映画は解釈による貧困さから逃れ、豊かさを勝ち得ている。

 解釈はここでは罪だ。言葉を含めた様々な音に耳を澄ませればいい。

  • 山肌に木霊する羊たちの鳴声。
  • 夜の闇の中で燃える炎の音。
  • "Nicht"という言葉の決定的な響き。

 それらの音にこの映画の全てがある、そう僕は感じた。

1998/06/10

愛の誕生


  • 1993年フランス=スイス映画 5/9シネ・ヴィヴァン・六本木
  • 監督:フィリップ・ガレル 脚本:マルク・ショロデンコ
  • 撮影:ラウル・クタール 音楽:ジョン・ケイル
  • 出演:ルー・カステル/ジャン=ピエール・レオー/ヨハンナ・テル・ステーヘ


 パリの夜の静かな騒めきが心に残る。その騒めきは遠く海の騒めきと繋がりとても優しい。パリの夜が立てる静かで優しい騒めきの中を二人のもう若くない男たちが歩き、恋について語っている。カメラは後退しながら二人を捉る。低く抑えられていた街ノイズが高まる。カメラはパンする。光に溢れている雑貨屋が現れる。男の一人がその店に入り、ゴロワーズを買う。
 始まりのシーンだ。このシーンで人はこの映画に恋するだろう。

 この映画に対してドキュメンタリーあるいはルポルタージュという言葉を使う人たちがいる。そんな人たちは映画的感性がゼロなのだ。アレクサンドル・ソクーロフもまたドキュメンタリーという言葉を使って論じられることの多い映画監督だ。それに対してソクーロフは次のように述べ抗議している。
 私にとってドキュメンタリーという素材は、美学的行為であって、・・・・・、真実を語ったり、確認したりする志向ではない。
 私は一度も真実を志向したことはない。
 「人生の反映」でも、「人生の真実」でもない。
 映画、それはもう一つの人生だ。
この映画もけっして真実を志向してはいない。この映画のやろうとしていることは一つの生を創り出すことなのだ。穏やかな親密さを基本の糸として苛立ちや怒り、不安や死を織り込みながら光と影でできた布を創り出している。その布は静謐な美しさに満ちている。僕たちはその布に身を包みながらパリの夜がたてる音に耳を傾ければいい。

 路上で恋人といる男。男は上を見上げる。あの部屋でジャンは拳銃自殺したんだ。カメラはその部屋に向かない。だだ夜のパリを捉える。

 映画を観終わって家に戻る道で、僕は男が恋人の髪を愛しく撫でるシーンを思い浮かべ僕の長い髪に手をやった。髪は夜の寒さに冷えていた。

※こんなことを解説するのはかなり野暮なのですが、ジャンとは「ママと娼婦」を監督したジャン・ユスターシュのことです。フィリップ・ガレルの親友でしたが、1981年に拳銃自殺しています。

1997/05/09