- 1947年フランス映画 2/9NFC
- 監督/脚本:ジュリアン・デュヴィヴィエ
- 撮影:ニコラ・エイエ 音楽:ジャン・ヴィエネール
- 出演:ミシェル・シモン/ヴィヴィアーヌ・ロマンス/ポール・ベルナール
このジュリアン・デュヴィヴィエの映画はフランスの人気監督、パトリス・ルコントによって翻案されている。
その映画『仕立屋の恋』は僕がまだルコントに興味を持っていた頃に観た映画で、好きな映画だ。『仕立屋の恋』には主人公を思いやる刑事の姿が印象的に描かれていてまだしも救いもあったが、この映画はその救いすらも否定している。ラストを飾るのは皮肉にも、この世界の人たちはやがてみんな手を結び合うだろう、恋は美しく、素晴らしいというシャンソンだ。そのシャンソンの中をこの世で最も孤独な男の死体が車で運ばれて行く。
見る者と見られる者との関係、端的に言えば覗きが『仕立屋の恋』の中心にはあったが、『パニック』も覗きという行為をその中心に持っている。
三島由紀夫の『午後の曳航』の中で少年は母親がオナニーをするのを覗き見る。そこで注意しなければならないのは、その行為において少年はエロスの世界から決定的に拒絶されているということなのだ。覗き見るとき、人間は目だけの存在になる。言い換えれば認識する存在になる。見ること、認識することがその人間の全てになる。認識ほどエロスから遠いものがこの世にあるだろうか?少年はエロス的世界の住人である青年の肉体を切り裂いて殺すが、少年はエロスには達しない。少年が青年の肉体を切り裂くのは母親とセックスする青年の肉体の秘密を見るためなのだと『午後の曳航』を解釈することもできるだろう。少年は見る存在、認識する存在であり続ける。エロスは壁の向こう側に在り続ける。
覗きは認識的人間をエロスへと駆り立てるが、同時に覗きは認識的人間をエロスから徹底的に隔てる。認識的人間は世界を見る者であることによって、世界の外に存在する。認識的人間は世界に属さない。ジャン・ルノワールが絶賛した俳優ミシェル・シモンによって演じられる中年男は母親からさえも愛されたことがないと静かな悲しみを漂わせながら言う。だかそれは当然なのだ。いったい誰がこの世界に属さない者を愛せるのだろうか?認識的人間はこの世で最も愛から遠い。
認識的人間がエロスに向かうとき、そこに待ち受けているのは、滑稽さか悲劇だ。『パニック』は滑稽な悲劇に向かってまっしぐらに突き進む。
『パニック』の主人公である認識的人間が写真を趣味にしているのはあまりにも出来過ぎている。見ることが全てである人間に最も相応しい趣味。認識的人間は殺人現場を目撃しても、行為すること無く、シャッターを切る。
パリの群衆が主人公を追い立て、やがて死に至らしめるのはたぶん正しい。見ることはたぶんこの世界で最大の悪なのだ、と言ったらあまりにもロマンティック過ぎるだろうが、そう言いたくなるものを『パニック』という優れた映画は持っている。
1999/02/09