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2016/02/24

クローズ・アップ


  • 1990年イラン映画
  • 監督:アッバス・キアロスタミ
  • 主演:ホセイン・サブジアン/モフセン・マフマルバフ/ハッサン・ファラズマンド


 「友だちのうちはどこ?」は、日本でも、多くのファンを掴んだ、アッバス・キアロスタミの90年の作品です。キアロスタミは、この作品を、自作の中でも、とりわけ気に入っているそうです。
 ある青年が、自分を、映画監督だと騙った、実際に起こった、詐欺事件を、題材にした作品です。映画は、再現シーンと、ドキュメンタリーから成り、登場人物は、全員、実際に、事件に関わった人ばかりです。
 裁判のドキュメンタリーがあることから分かるように、この作品は、事件と同時進行で撮影されています。

***以下、ネタばれあり***

 最後に、青年に欺かれた、一家の主人が、青年に向かって、「君に出会えたことを、誇りに思う」と言い、青年は、赤い花を持ったまま、静かに微笑み、この映画は、終わります。
 青年は、初めて会った、キアロスタミ監督に対して、「苦しみ」を表現して欲しいと言います。そして、裁判の過程で、マフマルバフ監督の「サイクリスト」に対する熱い思いを語ります。「その作品は、家族のために、日用品すら買ってやれない、貧しい、自分の「苦しみ」を表現してくれた。その作品には、生きるために、自尊心すら、売り払う、人間が登場する。その作品は、自分の苦しみを全て、語ってくれた。自分は、救われた」。そんなにも、「サイクリスト」に惚れ込んだ青年は、たまたま、バスで隣り合わせた婦人に、自分は、監督のマフマルバフだと語ってしまうのです。
 青年が、釈放され、監督のマフマルバフに出会ったとき、青年は、泣き崩れます。監督は、泣くなよと慰めます。そして、最後のシーンが続きます。君に出会えたことを、誇りに思う。静かに、微笑む青年。
 事実と虚構、フィクションとドキュメンタリー、嘘と真実、そんな問題を感じさせる前に、静かな感動を与えてくれる作品でした。
 僕が、好きなシーンは、一家の主人が、既に、青年を、詐欺師と知りながらも、青年の話に惹き込まれていく、シーンです。そのシーンは、最後のシーンを予感させるものでした。

 多分、僕の心の中に、残っていくのは、澄んだ音を立てて、坂道を転がっていく、緑色のスプレー缶でしょう。それは、現実と虚構の狭間で、輝いていました。

1995/07/30

風が吹くまま


  • 1999年イラン映画 2/14ユーロスペース
  • 監督/脚本:アッバス・キアロスタミ
  • 出演:ベーザード・ドーラニー


 題名のとおりとても爽やかな映画だ。その爽やかさはこの世界に向けられたアッバス・キアロスタミの視線の慈しむような優しさから生まれている。

 キアロスタミ監督はこの映画ではドキュメンタリー手法(そう彼の方法論を呼んでしまってはあまりにも安易だし、間違ってもいるのだが)から離れ、物語ることを選んでいる。その物語のテーマになるものは幼稚なものだと言ってもいい。ドキュメンタリーのために、人の死を待つのは道徳的に正しいことなのか、それとも間違っていることなのか?

 そのテーマに答えるものとしてキアロスタミは少年の視線を置いている。確かにテーマは幼稚なものだが、幼稚なだけ基本的で切実なものだ。そのテーマは表現者の在り方の根本に関わってくる。少年の視線は主人公である表現者をこの世界の持つ美しさへと導く。キアロスタミは道徳的なテーマをこの世界の中に置いて問い直しているのだ。そしてこの世界はとても美しい。

 美が道徳的な問を吸収してこの世界に溶かし込むと書いたら、あまりにもロマンチィック過ぎるだろうか?表現者は少年の視線を潜り抜けることによって、世界と対峙するのだ。その対峙を通して表現者は表現の意味を知る。たぶんそれは言葉にはできないことだ。表現者を表現者たらしめているのは、論理(言葉)ではなく、論理(言葉)の外に在るものなのだから。

 表現者は道徳的理由故に表現を放棄するのではない。まったく逆だ。表現者は真に表現すべきものを知り、それ故に偽りの表現を捨て去るのだ。そして映画が終わるとき、僕たちはこの映画全体が主人公である表現者が表現すべきものであったことに気付く。

2000/02/14

オリーブの林をぬけて


  • 1994年イラン映画
  • 監督:アッバス・キアロスタミ
  • 主演:ホセイン・レザイ/モハマッド=アリ・ケシャヴァーズ/タヘレ・ラダニアン


 例えば、ホセインと監督の会話から、ホセインの回想シーンに移り、ホセインとタヘレの祖母との「結婚」に関する話し合いが終わると、ホセインは、「おーい、そんなところでなにをしているんだ。」と呼び掛けられ、「(撮影の邪魔だから)こっちに来い。」と言われます。その時、ホセインの回想を実際に起こったものだと見ていた観客は、この映画撮影という虚構を造り出すものの出現によって、回想は、フィクションではないかと混乱します。
 こうして、観客は何度も、ノンフィクションとフィクションの間を行き来させれます。このことは、観客が、ストーリーに感情移入することを妨げます。観客は、ストーリーに対して一定の距離をおきます。つまり、観客は、ストーリーに対して批判的でいられるのです。これが、アッバス・キアロスタミ監督が狙ったことではないでしょうか。言い換えれば、映画の知的享受をキアロスタミ監督は、狙ったんだと思います。

 この映画の主旋律は、若い男女の結婚です。従旋律として、地震で妻を亡くした老人が出てきます。監督から、再婚しないのかと聞かれた老人は、「50年も連れ添ったんだ。あれに悪いよ。」と答えます。監督は「でも、寂しいだろ。」と言います。老人は、「この年になって、結婚するのは罰当たりだ。」と答えます。この答えを聞いた監督は、にっこりと笑い、老人と意気投合します。ここには、清潔な倫理観と結婚を神聖なものとする考え方があります。この従旋律が、主旋律を透明で美しいものにしています。
 峠の頂上からの超ロングショットの中で、白い小さな固まりとなったとホセインとタヘレは、草原の中の道を歩きます。タヘレの後を一定の距離を置いて歩くホセイン。ホセインがなにをタヘレに話し掛けているのか、僕たちには聞こえません。バックに流れる音楽が、明るく転調すると同時にホセインは、風にたなびく草原を横切って、頂上のカメラに向かってまっしぐらに駆け戻ってきます。ホセインの結婚が峠のジクザクを登るように困難なものだったと知っている僕たち観客にとって、それは感動的で且つとても美しいシーンでした。

1995/01/12