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2016/03/05

ジョン・カサヴェテスのフィルモグラフィ

  娯楽としての映画も私は否定しないし、それどころか大いに楽しんでいますが、一方で映画は一人の人間として、真剣に向かい合うべきものであり得ます。

 ジョン・カサヴェテスは、映画は、人がどうしようもなく抱え込んでいる切実な生の問題に応えてくれるものなのだと固く深く信じ、情熱の全てを映画に注いだ人です。

 このフィルモグラフィーが、譬えたった一人であっても、その人のカサヴェテス映画への道案内になれば、これほど嬉しいことはありません。

Filmographie

No.年題名紹介
1 1959 アメリカの影/Shadows 人種問題という社会派的な枠組みを持ちながらも、本質はハリウッド的映画に対する強烈なレジスタンス。即興を中心に据え、従来の映画手法を徹底的に否定してみせると同時に、その「新しい」手法の有効性も証明した。
2 1961 よみがえるブルース/Too Late Blues 才能を巡っての苦渋に満ちた物語。パラマウント社が要求する「効率性」はカサヴェテスのスタイルには当然合わず、彼が満足できる作品は作れなかった。興行的にも失敗。
3 1963 愛の奇跡/A Child Is Waiting 心を閉ざしてしまった少年の姿を描く。United Artists社からの指名だったが、プロデューサーは子供たちの生き生きとしたリアリティを描いたカサヴェテスの仕事に満足せず、編集で全く別の作品にしてしまった。カサヴェテスはプロデューサーと徹底的にやり合い、結果完全に失業した。
4 1968 フェイシズ/Faces 長い結婚生活がその空虚さを露わにしていく様を描く。ハリウッドから追い出されたカサヴェテスは独立資本で映画を製作することを決意し、それを実行した。ヴェネチア国際映画祭で受賞する等、作品としても評価され、興行的にもある程度の成功を収めた。
5 1970 ハズバンズ/Husbands 3人の中年に差し掛かった男たちを描く。彼らは死に向かい合わざるを得ない。出演したピーター・フォークはこの非ハリウッド映画が理解できなかった(二度と出演しないと宣言)。編集に時間がかかり、公開されたのは第6版。
6 1971 ミニー&モスコウィッツ/Minnie and Moskowitz 偶然出会った男女が結婚するまでを描く。ハッピーエンドだが、結婚制度には一貫して反対していたカサヴェテスの目は冷徹。当時仕事がなかった若きマーティン・スコセッシが音響効果で参加している。
7 1974 こわれゆく女/A Woman Under the Influence 女性は結婚すれば、夫婦という社会的関係の下で、そして妻という役割、母親という役割の中で生きていく。そのごく普通のことによって一人の女性が押し潰されこわれてゆく。カサヴェテスは決して安易になぜとは問わない。理解して逃げようとせずに、目を逸らさずに真摯に対峙する。
8 1976 チャイニーズ・ブッキーを殺した男/The Killing of a Chinese Bookie  カサヴェテス版フィルム・ノワール。舞台に誇りを持っている、場末のショー・クラブのオーナーが主人公。主演のベン・ギャザラは主人公とそのクラブは映画監督としてのカサヴェテスのメタファーなのだと言っている。
9 1977 オープニング・ナイト/Opening Night 才能の衰えに直面した一人の女優についての作品。表現者を描いたと言ってもいいかもしれない。主人公のマートルは、演技することに全てを懸け、断固として演技を追求する。その姿勢は周囲との衝突を招くが、彼女は決して譲らず、最期に勝利する。カサヴェテスは言う。彼女はなにかを勝ち取る訳ではない。しかし彼女は満足する。そんな彼女に私は感動してしまうんだ。
10 1980 グロリア/Gloria カサヴェテスがコロンビア映画社というハリウッド大手の元で久しぶりに撮った作品。リュック・ベッソン『レオン』の原型とも言えるかもしれない。会社側は満足せずオクラ入りになるところを、スピルバーグが絶賛し公開となった。作品的にも高く評価され、興行面でも成功した。
11 1984 ラヴ・ストリームス /Love Streams 無意味な生の流れの中で、その無意味さに立ち向かいながら、なんとか生の意味、愛の流れを見出そうとし、それを試み続けている姉弟についての作品。カサヴェテスは僕が関心があるのは、愛だけであり、そしてそれを失うことだけだと言っているが、その言葉は生に意味があるか、それとも無意味なのかと言い換えてもいいだろう。
12 1986 ピーター・フォークのビッグ・トラブル/Big Trouble ハリウッド式コメディ。カサヴェテスは自分の作品とは認めていない。ピーター・フォークとの友情から止む無く監督を引き受け、その上最終編集権まで奪われた。しかしカサヴェテスらしさは随所に観ることができる。
※参考: 『カサヴェテス・コレクション』

ミニー&モスコーウィッツ


  • 1971年アメリカ映画 4/10シネ・アミューズ
  • 監督/脚本:ジョン・カサヴェテス
  • 撮影:アーサー・オーニッツ 音楽:ボー・ハーウッド
  • 出演:ジーナ・ローランズ/シーモア・カッセル/ジョン・カサヴェテス


 ニューヨークでは孤独な余り奇妙になってしまった人々が登場する。奇妙な中年男に捉まりながらも彼の言葉に親切に応対する男もまた別の場所では奇妙な行動を取り、遂には屈強な男たちに叩きのめされる。

 彼はロスアンジェルスへと生活の拠点を移すが、そうするとき彼はニューヨークの孤独から逃げ出そうとしているのだろうか?
 彼は駐車係で満足するような男だが、彼は車を愛し客を愛している、つまり彼は仕事を愛している。彼は孤独な余り奇妙な人間になってしまっているが、基本的には生きることを愛している人間だ。
 だから彼のロスアンジェルス行きは、むしろ彼の孤独との戦いなのだと見るべきだろう。彼は孤独から抜け出してどこか光の差す場所を目指す。

 ロスアンジェルスにあるのもまた孤独だ。
 彼が出会うのは孤独に苦しみ奇妙になってしまった女性だ。彼らは互いを孤独から自分を救い出す存在と見做し、惹かれ合うというよりは、孤独において共感しているのだ。
 彼らは互いに優しい言葉を投げ与えはしない。彼らはほとんど憎しみの言葉である言葉をぶつけ合う。彼らは孤独の苦しみを相手に赤裸々に見せ合っているのだ。

 暴言と暴力。それら二つの中で、彼らは孤独と正面から対峙する。それならばそれら二つこそ光へと向かう出発点なのだ。
 キルケゴールは孤独を知る魂こそが愛を知ることができると記したが、彼ら二人にこそこの言葉は贈られるべきだろう。

 ロスアンジェルスの二人の男たち。家庭を持った男と離婚した男。
 彼らには自分のことしか見えていない。彼らには自分の傷しか見えていない。彼らにはミニーの孤独が見えていない。

 だから彼らには愛は不可能なのだ。

2000/04/10

ハズバンズ


  • 1970年アメリカ映画 3/24シネ・アミューズ
  • 監督/脚本:ジョン・カサヴェテス
  • 撮影:ヴィクター・J・ケンバー 美術:レネ・ドリアック
  • 出演:ベン・ギャザラ/ピーター・フォーク/ジョン・カサヴェテス


 親友の突然の死。昨日のように今日があり、今日のように明日がある、そのように時が流れると思い込んでいた三人の男たちはその親友の死を通して死に直面する。彼らは自分たちの生において死の存在を忘れて生きてきたのだが、親友の死が死というとても重たいものを彼らに思い出させる。あらゆる生が結局死を迎えるのならば、生はどんな意味を持ちえるのだろうか?生とは無意味なもののことを言うのだ。

 彼ら三人は中年でそれぞれに成功した人間たちだ。彼らは社会的地位とそれに相応しい収入を得て、自己満足して生きてきた。逆に言うならば生というものにまったく盲目になって生きてきた。彼らは簡単な言葉を使うならば「立身出世」=「生きること」と信じて生きてきた。その「信仰」においては生そのものへの視線はまったく欠けている。その彼らに死が突然降りかかって来る。死は生へと強制的に彼らの視線を向けさせる。死は容赦なく生の無意味を宣告するのだから、彼らがこの先、生きようとするならば、生を無意味から救い出さなければならない。

 三人の男たちは葬式の後、第三者から見るならばまったく愚かしい行動へと向かう。彼らは生に直面せざるを得なくなり、気が狂うのだ。彼らはこれまでの生が死がもたらす虚無の前で崩壊するのを見る。彼らの一人が妻に暴力を振るうのは、そのありありとした崩壊が最も親しい存在である妻に見えないという苛立ち故なのだ。

 愚かしい行為を通して彼ら三人は一貫して生の意味を探っている。その探求の旅がセックスと暴力という二つの暗い暗い影を帯びるのは、多分当然のことなのだろう。もう少し突っ込めば、この映画の神話的構造が見えてくるかもしれない。図式的に説明するならば、図式的説明はどんな時にもなんの意味もないのだが、死はセックスと暴力よって浄化され、再び生は光を取り戻す。

 彼ら三人はまるで「子供のよう」だが、それは彼らが彼らが直面したものに誠実であろうとしているからなのだ。彼らの愚かしさは彼らの誠実さを意味する。

 この映画に解答はない。生の意味は問い続けられるべき問題であり、その探求に終わりはないからだ。

2000/03/24