- 1994年イラン映画
- 監督:アッバス・キアロスタミ
- 主演:ホセイン・レザイ/モハマッド=アリ・ケシャヴァーズ/タヘレ・ラダニアン
例えば、ホセインと監督の会話から、ホセインの回想シーンに移り、ホセインとタヘレの祖母との「結婚」に関する話し合いが終わると、ホセインは、「おーい、そんなところでなにをしているんだ。」と呼び掛けられ、「(撮影の邪魔だから)こっちに来い。」と言われます。その時、ホセインの回想を実際に起こったものだと見ていた観客は、この映画撮影という虚構を造り出すものの出現によって、回想は、フィクションではないかと混乱します。
こうして、観客は何度も、ノンフィクションとフィクションの間を行き来させれます。このことは、観客が、ストーリーに感情移入することを妨げます。観客は、ストーリーに対して一定の距離をおきます。つまり、観客は、ストーリーに対して批判的でいられるのです。これが、アッバス・キアロスタミ監督が狙ったことではないでしょうか。言い換えれば、映画の知的享受をキアロスタミ監督は、狙ったんだと思います。
この映画の主旋律は、若い男女の結婚です。従旋律として、地震で妻を亡くした老人が出てきます。監督から、再婚しないのかと聞かれた老人は、「50年も連れ添ったんだ。あれに悪いよ。」と答えます。監督は「でも、寂しいだろ。」と言います。老人は、「この年になって、結婚するのは罰当たりだ。」と答えます。この答えを聞いた監督は、にっこりと笑い、老人と意気投合します。ここには、清潔な倫理観と結婚を神聖なものとする考え方があります。この従旋律が、主旋律を透明で美しいものにしています。
峠の頂上からの超ロングショットの中で、白い小さな固まりとなったとホセインとタヘレは、草原の中の道を歩きます。タヘレの後を一定の距離を置いて歩くホセイン。ホセインがなにをタヘレに話し掛けているのか、僕たちには聞こえません。バックに流れる音楽が、明るく転調すると同時にホセインは、風にたなびく草原を横切って、頂上のカメラに向かってまっしぐらに駆け戻ってきます。ホセインの結婚が峠のジクザクを登るように困難なものだったと知っている僕たち観客にとって、それは感動的で且つとても美しいシーンでした。
1995/01/12