2016/03/01

ポーラX


  • 1999年フランス映画 10/13シネマライズ
  • 監督:レオス・カラックス
  • 撮影:エリック・ゴーティエ 音楽:スコット・ウォーカー
  • 出演:ギヨーム・ドパルデュー/カテリーナ・ゴルベワ/デルフィーヌ・シュイヨー


 この映画をエクリチュールについての映画だとしようか。

 ともかくもこの映画は印象的な音の構成で始まる。朝の陽光に緑に輝く芝生の中で回っている撒水器から空に向かって噴出する水の音。少し遠く向こうから聞こえるバイクの音。バイクの音は手前に近付き、大きくなり、去っていく。撒水器の音が残る。その音に鳩たちが羽ばたく音が重なる。すぐに羽ばたきの音は無くなる。そしてストリングスの爽やかというよりは重厚な音が被さる。白く輝く城を捉えていたカメラは壁の隙間に入り込み、寝室をレンズに入れる。裸でうつ伏せに寝ている美しい女性。そのイメージは美しくもあるが、不吉さも持っている。

 水のイメージは終始一貫している。撒水器から朝空に向かって噴出し、挫折し地面に向かって崩れ落ちる水は、ラスト、ガラスに姿を変える。崩れ落ちる水の音は粉々に砕かれたガラスの立てる音となる。

 色の設定はとてもシンプルだ。白と黒。白は光で黒は闇。黒の色彩に包まれた女性がエクリチュールに憑かれた男を光から闇へと導く。いやそれは正確でない。男は闇へと導かれるのではなく、闇へと赴くことを望むのだ。黒の女性は現実的設定も与えられてるが、夢の存在である。男の夢が実体化した存在。ここでは夢という言葉ではなく、悪夢という言葉を使うべきなのかもしれない。黒の女性は男の外交官である父親から男に与えられたプレゼントなのだ。父親は「死体が殺される」他国から黒の女性を男にもたらす。

 戦争とは外交の一つの在り方だ。別の言い方をするならば、外交は優雅で明るい表面の下に凶暴な破壊性を隠している。男はそれをエクリチュールによって暴こうとするのだ。その表現が余りにも浅薄に聞こえるならば、朝の陽光に輝く美しい世界がその本質として持っている凶暴性をエクリチュールによって露わにしようと男はする。男はそれを「世界を超える」と表現するが、その行為の導き手となるのが黒の女性なのだ。

 外交とは隠喩なのだ、とここで言っておこう。外交とは暴力的であることがその本性である世界を美しいと言いくるめることなのだ。男は全ての外交官をこの世界から抹殺しなければならない。そうしなければ生は偽善性の中に閉じ込められ腐敗していく。男は全ての外交官を抹殺することに成功するが、それは勝利なのだろうか?ラスト、男は勝利者には全く見えない。男は敗北者だ。なぜならば男は偽物だからだ。男は世界を暴く資格が無い。男は外交官の血を受け継いでいる。端的に言うならば、男もまた外交官なのだ。

 男の偽物性が暴かれた時、黒の女性は姿を消す。男はそれすらも知ることができない。

1999/10/13