2016/03/01

汚れた血


  • 1986年フランス映画 9/27ユーロスペース
  • 監督/脚本:レオス・カラックス
  • 出演:ドニ・ラヴァン/ジュリエット・ビノシュ/ジュリー・デルピー


 バイクに乗って疾走する天使。天使からの逃走。夜バスでの運命的出会い。誤解的偶然の中で青年は走るのを止めたもう若くない女性を恋する。その恋は不可能な恋だ。なぜならば青年は走る人間であり、女性は走るのに疲れ、それを放棄した人間だからだ。

 青年もまた走ることを放棄しようとしている。その企ての中で青年は走るのを止めた女性と出会う。出会の時、女性は半分眠っている。動ではなく、静の中にいる女性。だからこそ青年は女性を愛するのだ。女性は青年に私はずっと年上の男性かずっと年下の男性しか愛さないと言う。そう女性が言うとき彼女は自分は動的な関係を好まない、安定した静的な関係を望むと言っているのだ。

 この映画で最も美しいシーンはパラシュートのシーンだろう。女性は空に飛び出した途端、失神する。そのことによって彼女は自分が静を選んだ存在であることを露にする。彼女が本物であることを知ったとき、青年は本気で女性を愛する。青年の腕の中で女性は静そのものであり、パラシュートの下で失神した女性を抱いた青年のイメージは、青年と女性との関係の本質をこれ以上ないほど美しく描いている。

 青年は動の人間から静の人間になることによって、自分の生をリセットしようとしている。青年の目的は静の人間になることではなく、青年の表現をそのまま借りるならばコンクリート漬けになった自分の腹部から逃れることだ。
 喜劇的なことに、或いは全く同じことだが悲劇的なことに、その逃走において青年はけっして静の人間になることはできない。逃走は不可避的に青年を走る人間にする。それは青年がデビッド・ボウイの音楽に合わせて踊るシーンが語ってることだ。デビッド・ボウイの音楽が流れると青年は腹部を押さえ夜の街の通りに飛び出し、駆け出す。青年は喜びを発散させながら夜の街を走る。パラシュートのシーンが女性が静の人間であることを明らかにしたのと対照的に夜の街でのダンスのシーンは青年が動の人間で在ることを明らかにする。ダンスを終えた青年が戻ると、女性はいない。
 青年は永遠の片思いの中に置かれる。

 だから青年を最終的に救うのはバイクに乗った動の天使なのだ。バイクに乗った天使は青年を破滅に導くが、その破滅の中で青年はコンクリート漬けになった自分の腹部からの逃走に成功するのだ。
 青年は銃弾によって穴を開けられた腹部から血を流しながら、走ることの極限値である飛行機を目指す。もっと速く!もっと速く!

 走るのを放棄した女性は、こう言葉にしてしまえば余りにも薄っぺらに響くのだが、生とは走ることなのだと気付く。女性が文字通り走りだすとき、女性は生から動へと移り、一つの恋が完成するのだ。

1999/09/27