2016/03/01

ボーイ・ミーツ・ガール


  • 1983年フランス映画 10/19ユーロスペース
  • 監督/脚本:レオス・カラックス
  • 撮影:ジャン・イヴ・エスコフィエ 美術:セルジュ・マルソルフ
  • 出演:ドニ・ラヴァン/ミレーユ・ペリエ


 終始一貫しているのは水のイメージだ。水は割れて無数のヒビの入ったガラスに姿を変えたり、雨の音になったりする。

 水は透明な存在でもあるが、海や血にも繋がり、暗く渾沌としたものも呼び起こす。水はその澄んだイメージの中に破滅を孕んでいる。水は人を理性の光で明るく照らし出すのではなく、感情の暗闇、渾沌へと人を導く。
 この映画を見終わったとき、そのようなことを書きたくなる。

 ここでは恋は偶然に始まるが、同時にその恋は企みに満ちている。キルケゴールは孤独を知るものだけが愛を知ると述べたが、この恋は愛に絶望した人間たちの間で生まれる恋であり、最終的には片思いに終わる恋である。ここにあるのは深い深い敗北感なのだ。その敗北感は表面的には世俗的成功を収めることができないまま、年だけを取っていくという所から生まれているが、この敗北感はもっともっと深いところに根差している。

 青年が非凡な人間になりたかったと言うとき、彼が意味しているのは孤独の中で生きざるを得ない日常性からの脱出なのだ。だからまだ子供だった頃の青年のヒーローは宇宙飛行士なのだ。子供だった青年にとって宇宙は日常性からの解放の象徴として在った。
 しかしキルケゴールが指摘しているように孤独があってこそ愛は成り立つ。愛を得ようとするならば、人は孤独の中に降りていかなければならない。この映画にあるのは重苦しさだが、それは青年がそのことに気付いているからだ。青年は愛に惹かれるのではなく、孤独に惹かれる。この映画に在るのは恋ではなく、孤独との出会いなのだ、と記してもいい。

 ラスト、孤独はその最深部に達する。出会った二人はそこで破滅するが、その場所でしか愛は生まれない。愛とは絶対的な不可能性なのだ。

1999/10/19