2016/03/02

Hole


  • 1998年台湾映画 9/6シネマライズ
  • 監督/脚本:ツァイ・ミンリャン
  • 撮影:リャオ・ペンロン 録音:ヤン・チンアン
  • 出演:ヤン・クイメイ/リー・カンション/ミャオ・ティエン


 世紀末を迎えた都市。そこではウイルスによる疫病が蔓延している。世紀末ウイルスと名付けられたそのウイルスに感染すると人々はゴキブリのように這い回り、光を極度に嫌うようになる。
 そのような世界の中での純愛を描いたミュージカル映画がこの映画なのだと言えば、冗談だと思われるだろうが、まさにこの映画はそのような映画なのだ。

 どこかリドリー・スコットの『ブレード・ランナー』を思わせる世界で激しい雨が降り続いている。冒頭は映像よりもその雨の音が印象的だ。その雨の音は心の中に刻み付けられる。雨の音は最初から最後まで続く。

 水のイメージはこの映画で極めて重要だが、そのイメージは通常のものから大きく懸け離れている。通常水のイメージは「癒し」といういまではすっかり手垢に塗れてしまった言葉に収斂されるが、例えばこの映画では水のイメージは吐瀉物や小便に姿を変える。水のイメージは一言で言えば、負のものとしてある。全てを腐らせ、閉じ込めるものとしての水のイメージ。しかし同時に水は登場人物たちを生かす。登場人物たちは大きなヤカンに水を入れ、湯を沸かし、インスタント・ラーメンを食べる。そして最後に水はまさに救いを象徴するものとして現れる。天から差し出された透明なコップに入った水。その水は世紀末ウイルスに感染した女性を回復させる。

 ツァイ・ミンリャン監督はこの映画で変わったと言われるが、彼は終始都会の孤独を見つめてきた監督だ。その線上にこの風変わりな映画は在る。
 孤独という言葉は誤解を招くかもしれない。都会とは何か?都会とは農村と違って隣人で構成される社会ではなく、他人で構成される社会なのだ。いまだ僕たちは他人との通路を発見することができないでいる。だからオウム的なものも生まれるのだ。ツァイ・ミンリャンは他人との通路を必死に見出そうとしている都会人を終始一貫して描いてきた。その探求の一つの到達点としてこの映画は在る。

 ツァイ・ミンリャンは真摯に都会人の孤独を見つめ続ける中で、ハロルド・ピンター的不条理に達したように僕には感じれれる。ピンターは不条理にどんな解釈も与えない。不条理を不条理として投げ出し、日常世界にひびを入れる。ツァイ・ミンリャンもこの映画でどんな解釈も試みていない。ピンターとツァイ・ミンリャンが違うところは、ツァイ・ミンリャンが投げ出す不条理は、つまり「Hole」はある程度合理的なものであり、説明が付くものだとうことだ。でもツァイ・ミンリャンはその「Hole」にどんな解釈も与えない。「Hole」は即物的な物としてある。

 その即物的な物としての「Hole」が日常世界にひびを入れ、登場人物たちは「他人へと通じる通路」の探求を始める。登場人物たちは卑近に描かれているが、その戦いにおいて英雄的だ。

 ツァイ・ミンリャンは彼らに勝利を与えるが、その勝利は一時的なものであることを誰よりもよく知っているのはツァイ・ミンリャンだろう。僕はさらに戦い続けるだろう彼に声援を送りたい。

1999/09/06