2016/03/01

ゴースト・ドッグ


  • 1999年アメリカ映画 11/29シネ・アミューズ
  • 監督/脚本:ジム・ジャームッシュ
  • 撮影:ロビー・ミュラー 音楽:RZA
  • 出演:フォレスト・ウィテカー/ジョン・トーメイ/イザーク・ド・バンコレ


 夜の闇に沈もうとしている空の下を飛ぶ孤独な鳥。そのイメージで映画は始まるが、僕にはそれは今の時代に生きる僕たちの生そのもののように感じられた。その孤独な鳥は鳩なのだが、鳥は夜目が利かない。夜目が利かないまま暮れなずむ空を飛ぶ鳩のように、目隠しされたまま生きているのが、僕たちなのだ。

 冒頭の鳩のイメージは、そのまま黒人の大男のイメージへと引き継がれる。夜目が利かない鳩は帰巣本能に導かれて飼主である大男の元へと戻るが、大男は帰巣本能の代わりに『葉隠』を生の導きの光としている。

 ここでこの映画の核となっている『葉隠』について触れるならば、この書は江戸の極端に安定した時代に書かれている。『葉隠』はある意味では死の書だと言えるが、死がクローズ・アップされる背景には、変化の無い退屈な時間の流れの中でゆっくりと腐っていく生の姿がある。死は生の延長線上の上にあるのではなく、突然やってくる。その死の在り方が生をフランス人の言葉を借りるならばアンニュイから救い出す。死を意識したとき、生は安定して退屈に続くものから、常に死に晒された不安定なものとなる。生は直線から、断続した点となる。瞬間、瞬間こそが生となる。

 生が線上に続くものから断続した点になるとき、目隠しは外れる。いや、そうではない、目隠しされていようがいまいが、関係なくなる。生きるのに見通すことは重要でなくなる、いまここで目の前にある生が重要なのだ。言ってみれば、大男は目隠しを外そうと戦う代わりに、生を線から点にしているのだ。

 生が線から点になるとき、そこでは過去も未来もない、そこでは歴史の本質である発展はない。大男は超歴史的存在となって、線状の生の中に生きる人間たちからは理解不能となりその結果古風に見える存在となる。その古風さの中で生きることを選んだ大男はその古風さに殉じる。映画が終わったとき深い感動があるのは、この映画にははっきりとした一つの生の戦い、生きようとする戦いがあるからなのだ。

1999/11/29