2016/03/02


  • 1997年台湾映画 8/11ユーロスペース
  • 監督/脚本:ツァイ・ミンリャン
  • 撮影:リャオ・ペンロン 録音:ヤン・チンアン
  • 出演:リー・カンション/ミャオ・ティエン/ルー・シアオリン


 映画が終わった時に、スクリーンの右下隅にツァイ・ミンリャンと個人のサインのようにクレジットされた。それはとても感動的な瞬間だった。そのサインのようなクレジットは映画が映画工場の生み出す商品としてではなく、個人の創作物としてあり得ることを背筋を真直ぐに伸ばして証明していた。

 父親と息子。息子と母親。夫と妻。家。そんなものはどうでもいいのだ。重要なのは一つ一つのシーンにツァイ・ミンリャン印がしっかりと付けられていることなのだ。

 一つ一つのシーンの際立った特徴は、一言で言うならば、長過ぎるということだ。節度という言葉を使うならば、一つ一つの映像は或る節度を超えた時間の長さで観客に与えられる。
 具体的に例を挙げよう。
 中年の男が小便をしている。その映像が或る節度を持った時間内で終わるならば、その映像は意味付けされて観客のそれぞれの解釈の中に吸収されるだろう。だがこの映像はその節度を超えた時間、観客に提示される。その結果この映像は観客の安易な意味付けを逃れ、具体的な何物かとして観客に迫ってくるのだ。そこにこそこの映画の生命力がある。観客は長すぎる一つの映像の提示の中で生の現実と、リアルなものと向かい合うのだ。

 この映画を家族をテーマにしたものと見ても、この映画は魅力的だ。
 まず三人の孤独な人間たちが提示される。三人はそれぞれ独りで生きているように見える。中年の男は自分で食事の用意をして、自分のシャツにアイロンをかける。中年の女は働いていて愛人を持っている。中年の男と若者はすれ違っても他人のように無関心だ。映画が中盤まで進んで初めて三人が家族であることが示される。そしてその家は天井から水が漏れている。水のイメージはこの映画を貫いている。三人の孤独な人間と、壊れた家。これほど見事に今日の家族の在り方を、或いはもっと広く人間関係を表現したものはないだろう。

 家族を根本で支えるのは性的関係だ。だから闇の中で父親と息子が性的に結び付くとき初めてこの映画に深い癒しが感じられるのも当然なのだろう。しかしその性的結び付きは闇の中でだけ許されることなのだ。光の中では父親はその結び付きを否定するしかない。父親が涙を流すとき、そこには感傷しかない。父親は息子との関係を取り戻すのにどうすることもできない。

 映画のラスト。息子は朝の白い光の中に立つ。息子はその白い光の中で戦おうとはしていない。ただ立っている。息子を街ノイズが包む。そして映画は終わるのだ。解釈する必要はない。そのイメージをそのまま受け入れればいい。

1998/08/11