2016/03/01

ムーヴィー・デイズ


  • 1994年アイスランド=ドイツ=デンマーク映画 3/1ユーロスペース
  • 監督/脚本:フリドリック・トール・フリドリクソン
  • 撮影:アリ・クリスティンソン 音楽:ヒルマン・オルン・ヒルマンソン
  • 出演:オリヴァ・イェンス・エルナルソン/ルーリック・ハラルドソン/シグルーン・ハルムティーズドッティル


 夜。雨が降っている。街路はネオンの光を受け光っている。きれいに手入れされた車がゆっくりと走っている。着飾った人たちが期待に少し浮き浮きしながら歩道を歩いている。もうすぐ映画が始まるのだ。そこは古き良き時代のニューヨークの街角のように見えるが、アイスランドの町なのだ。

 『ムーヴィー・デイズ』は不思議な幸福感に包まれている。この幸福感はどこから来るのだろうかと映画を観ながらずっと考えていた。

 『ムーヴィー・デイズ』は二つの場所を舞台にしている。町と農場。
 町では子供たちが僕たちはアメリカ人になるかもしれないと話している。戦後アメリカ軍が駐留したアイスランドの町には空気の隅々までアメリカが行き渡っている。そのアメリカは侵略とか支配という言葉からは遠い。町で生きる人々はアメリカ文化の持つ輝きを拘りなく評価し、受け入れ、自分たちの生の一部にしている。そこで心を動かすものは、町に生きる人々の逞しさだ。その逞しさを前にするとアメリカ帝国主義というほとんど死語になっている言葉が、改めて実体の無いものとなって、消え去っていく。ここで勝利を収めているのは、アメリカではなく、アイスランドに生きる人たちなのだから。

 でも僕がぐっと惹かれたのは舞台が農場に移ってからだ。主人公の少年が夏の休暇に訪れて始めて出会うのは、朝は祈りの言葉よりも一杯の酒の方がずっといいと言ってのける無頼な老女だ。老女が座っている部屋の奥では老人が食事を摂っている。図式的に言ってしまえば、老人はアイスランドの伝統的文化を代表するものとして在る。アイスランド文化とアメリカ文化。内なる文化と外なる文化。それは監督にとってかなりシリアスなテーマだと僕は想像するのだが、監督はそのテーマをオフ・ビートな軽やかさで描いてみせる。

 老人が恐ろしい昔話をベットで語っている。ある少年が大女に捉えられ、手足をもがれ大鍋に放り込まれる話。少年はそんなの怖くないといって、映画で観た戦争の戦闘場面を話す。爆弾が爆発して血と肉が飛び散るんだ。
 ここには大げさに言えば、アイスランド文化とアメリカ文化がぶつかり合っている。老人は少年を黙らせると、決めの言葉で昔話を締め括る。一瞬息を呑む少年。でも監督は老人の勝利で終わらせない。少年はすかさず反撃に出る。
 監督はアイスランド文化もアメリカ文化も愛しているのだ。

 老人は悪魔にうなされる。老人は神秘主義者なのだが、その神秘主義こそはアイスランド文化の根幹にあるものなのだ。アメリカ文化の洗礼を受けている少年が、老人を通してその神秘主義に触れ次第に惹かれていくところが魅力的だ。

 別れの日、明るい陽光を受けて朝食を摂っている老人と少年。二人はなにも話さないが、繋がりの深さが逆に浮き彫りになる。とても好きなシーンだ。

 映画はハリウッド映画を映し出しているスクリーンに完全に引き込まれている少年の顔で終わる。たぶんそこにはもうアイスランド文化とアメリカ文化の対立はない。ただ映画が在るだけなのだ。

1999/03/01