2016/03/11

鳴門秘帖


  • 1957年大映京都映画 8/31NFC
  • 監督/脚本:衣笠貞之助 原作:吉川英治
  • 撮影:杉山公平 美術:西岡善信
  • 出演:長谷川一夫/市川雷藏/山本富士子


 原作が当時の売れっ子作家、吉川英治で、長谷川一夫、市川雷藏、山本富士子、淡島千景と当時の一際強い光を放っていたスターたちが一同に会している。
 つまりこの映画は一大娯楽映画なのであって、初公開から40年以上経ったフィルム・センターでの上映でもホールを満席にし、開場15分前には入場ストップになったのだった。

 このような映画が黄金期の日本映画を興業面で支えていたのだろうが、衣笠貞之助監督の演出は平板で、冴が全く無い。

 冒頭登場人物たちの紹介で短いエピソードを重ねていくのは、芸が全く無い。これはスター映画故の宿命なのだろうか?これではまるで登場人物を演じるスターの紹介のようだ。いやようだではなく、まさにそうなのだ。
 阿波の国が近隣の諸国と同盟を結び、幕府討伐を計るというこの映画のストーリーの根幹は背景に退き、心を躍らせることはない。冒頭の例を見ても分かるようにこの映画はスクリーンでスターを観るための映画なのだ。

 スターたちを観る映画なのだと割り切れば、一番惹かれるのは市川雷藏だ。両親を知らない、深い寂しさを抱えて生きている虚無的な人間。それは市川雷藏が繰り返し演じてきた人物であり、その人物は市川雷藏その人とも重なるのだが、その人物を市川雷藏はこの映画でも演じている。荒々しく野性的な登場人物の背後に冷めきった人間が透けて見える。市川雷藏がいるからこそ、かろうじてこの映画は鑑賞に耐え得る映画になっていると断言して置こう。

 淡島千景は都会的な資質を持った人だと僕は思うが、その都会的資質がこの映画では生かしきれていない。この人に少女のような純真な恋を演じさせては駄目だ。似合わない。スクリーンに登場してからしばらくは魅力を放っているが、長谷川一夫演じる隠密に惚れてからは生彩が無くなる。

 山本富士子も生かされていない。山本富士子演じる登場人物は、勇ましさと女らしさの間で揺れ動き、焦点のぼけた人間になっている。その結果、山本富士子の持っている魅力が伝わってこないのだ。これは直感で言うのだが、山本富士子はかなりおきゃんなところがある女優なので、それを生かして男勝りの女性を設定しておけば、彼女の魅力が生きたのではないかと感じる。

 長谷川一夫は二枚目である英雄を百パーセント確信して演じている。それは長谷川一夫の演技を堂々と見せていると同時に、平板なものにしている。そこではパターンがマンネリになり、魅力を失っている。長谷川一夫演じる英雄は運命と戦わない。この英雄は英雄であることに自足している。この英雄は危機に陥るが、観る者をけっしてハラハラさせることはない。なぜなら彼は戦っていないからだ。ただ決められた踊りを踊るだけだからだ。

 スター映画と言えども、肝心のストーリーが生かされなければ、その映画は詰まらないものになるだろう。

 この映画はその見本のような映画だ。

1999/08/31