2016/03/02

袋小路


  • 1966年イギリス映画 6/17ユーロスペース
  • 監督/脚本:ロマン・ポランスキー
  • 撮影:ギルバート・テイラー 音楽:コメダ
  • 出演:ドナルド・プレザンス/フランソワーズ・ドルレアック/ライオネル・スタンダー


 映画が政治的であろうとするとき、ここに最良の成果があると断言していいだろう。政治とは権力的関係だと定義するならば、政治は生のあらゆる面に関ってくる。

 ロマン・ポランスキーは政治的映画を撮るに当たって、中世の城に閉じこもった男を提示する。男がそのまま孤独に甘んじられる人間ならば、そこでは政治的関係は生まれない。男は政治的関係を自分の砦である城に閉じこもることによって拒絶しているのだが、男は最も政治的である関係の中の一つである恋愛関係の中に捕らわれてしまっている。男は不可避的に政治的関係を呼び寄せてしまう。

 男の生の政治性を際立たせるように、かつて工場の所有者であり経営者であった男と対照的にプロレタリアートであるギャングが登場する。ギャングは肉体的に傷ついているが、その暴力性によって男を支配する。ギャングの言いなりになってしまう男が英雄であるロブ・ロイに憧れているというのはこの映画の最大の皮肉だろう。念がいったことに男が所有する城はロブ・ロイの物語を書いた作家がかつて住んでいたところなのだ。男はたんに自分の砦である城に閉じこもって、政治的関係を拒んでいるだけではない。男は英雄ロブ・ロイの物語が生み出された頑丈な城を所有することによって、社会を支配する権力を手に入れたと夢想しているのだ。いや男はそれが夢想であることに気付いている。男は恋愛関係の中に投げ入れられることによって、英雄ロブ・ロイに象徴される絶対的権力が幻であることを知ってしまっている。マルセル・プルーストが言うように、他人を所有するという情熱は絶対的に不可能な情熱なのだ。男は城を購入したことを後悔している。

 男の夢想が夢想であることを追い打ちのように暴露するのはかつて男の朋友であった実業家一家の突然の訪問だ。その実業家一家の突然の訪問は男の過去の生活がいかに馬鹿げたものであったかを風刺の利いたユーモアで明らかにすると同時に、男のいまの生活が過去の生活と同様に無意味なものであることも明らかにする。実業家一家の突然の訪問は政治的関係からの断絶という夢想を打ち砕く。
 ここで劇的な政治的関係の逆転が起る。ギャングは自分の正体を隠すために、男の召使を演じなければならなくなるのだ。その政治的関係の逆転は改めてブルジョワに属する男とプロレタリアートに属するギャングとの政治的関係を浮かび上がらせる。ここで印象的なのは腕を負傷したギャングがその手を庇うために、腕を肘のところで直角に曲げ身体の前に置く典型的な召使的身振りを示すことだ。その身振りはここで起る政治的関係の逆転が男とギャングが本来の関係に戻ったことに過ぎないことを示す。

 男は政治的関係を絶つために城に閉じこもったが、生を馬鹿げたものにしてしまう政治的関係はどこまでも追ってくる。男を訪れる実業家は一人でやってくるのでない、家族でやってくるのだ。説明無しで乱暴に言ってしまえば家族こそは政治的関係の基盤となるものなのだ。男は実業家に君といるといらつくと言う。男は政治的関係を拒否し、実業家は政治的関係の中にどっぷりと浸かっている。

 男とギャングの間には友情と呼んでいいものが流れる。それは男が実社会から引退し「悠々自適」の生活を送るという形で社会からはみ出し、ギャングはギャングであることによって社会からはみ出しているからだ。男とギャングとの間には政治的関係から遠く離れた関係が結ばれるように見える。しかしそれは幻想なのだ。男はギャングに君と永遠にここで暮らせたらと言う。ギャングは苦い顔をしてそれを拒否する。そんなことはできない。ギャングの言葉を裏付けるようにして最後に男はギャングを射殺する。ギャングを殺したとき、男は政治的関係からけっして逃れることができないことを悟るのだ。

 ラスト・シーン。男は周りを海で囲まれた岩の上に座っている。もうそこには男を守ってくれる城はない。男は愛する女性の名前を呼び、涙を流す。無防備な男はエロスの中に捕らわれている、言い換えれば政治的関係の中に捕らわれている。エロスが人間にとって根源的なものならば、人間は根源的に政治的関係という名前の牢獄の囚人なのだ。

1998/06/17