2016/02/29

エキゾチカ


  • 1994年カナダ映画 2/28恵比寿ガーデンシネマ
  • 監督/脚本:アトム・エゴヤン
  • 撮影:ポール・サロシー 録音:スティーブン・マンロウ
  • 主演:ブルース・ブリーンウッド/ミア・カシュナー/エリアス・コーティアス


 監督のアトム・エゴイアンはエジプト生れのアルメニア人だ。そう書くと「アヴェティック」のアルメニア人であるドン・アスカリアン監督を思い浮かべる人が少なからずいるだろう。アルメニア共和国は、古くから、近隣諸国の侵入・支配を受けてきた。その侵入・支配は凄まじいものだったようで、例えば、「アヴェティック」の主人公、アヴェティックは、僕の祖母は、敵軍の凍えた足を暖めるために、腹部を切り裂かれたと語る。そんな祖国の歴史をアトム・エゴイアン監督も引き摺っているように思える。

 冒頭にマジック・ミラーが登場する。
 マジック・ミラーといえばヴィム・ヴェンダース監督の「パリ、テキサス」が印象深い。そこでは男はマジック・ミラー越しに妻と再会する。マジック・ミラーはコミュニケーションの困難さを象徴していた。そして子供が置き去りにされた悲しみを男に訴えるのはトランシーバーを通してだった。そこでもコミュニケーションの困難さがあらわになっていた。
 「エキゾチカ」では男とダンサーは盗聴という手段を通して初めて心を通いあわせる。ビルの林立する夜の都会の底で盗聴マイクから送られてくる音声に耳を傾ける男の姿はこの映画で最も感動的な映像だ。「エキゾチカ」でもコミュニケーションがテーマになっている。冒頭のマジック・ミラーに戻るならば、そこでは見るものと見られるものという関係が最も一方的な形で成立している。

 この映画の舞台となるナイトクラブ「エキゾチカ」はまさにその見るものと見られるものという関係の楽園だ。そしてその楽園を守るのはレズの女支配人だ。映画では明言されていないので断定はできないのだが、女支配人は人工受精によって懐胎している。楽園は聖母マリアによって守られているのだ。
 しかしこの楽園は聖性を持ち得ない。マジック・ミラーが楽園から聖性を奪う。マジック・ミラーは見るものと見られるものという関係から相互性を奪っている、というよりは見るものと見られるものという関係自体を破壊している。そこではどんな関係もあり得ない。覗きという孤独な行為があるだけだ。
 だから「エキゾチカ」は偽の楽園だ。いやむしろ見るものと見られるものという関係などはそもそも存在しないのだと言った方がいいかもしれない。そんなコミュニケーションは存在し得ないのだ。たぶん見ることはこの世で最も孤独な行為なのだ。「エキゾチカ」に集まる人々は見るものと見られるものという関係があることを信じる振りをしているだけなのかもしれない。信じさえすれば孤独から救われる。そうであるならば女支配人が「ここは楽しみの為の場所で癒しのための場所でない」と言うとき、彼女は完全に間違っている。

 この映画ではこの世で最もパーソナルな場所の一つであるトイレでコミュニケーションが試みられる。それは象徴的だ。そこはナイトクラブ「エキゾチカ」では人が唯一孤独と向かい合う場所だ。孤独を認めなければコミュニケーションは始まらない。

 言い方を変えるならばクラブ「エキゾチカ」はコミュニケーションから最も遠いところなのだ。人々は見るものと見られるものという虚偽の関係に身を置くために、すなわち孤独でない振りをするために集まってくる。ダンサーは少しずつ自分を見失っていく。ダンサーは青年には心を開く。青年は孤独でない振りをするために来たのではなく、自分の利益を守るために、彼女の話を聞くために来ている。そこでは皮肉な形でではあるがコミュニケーションは成立し得る。だからダンサーは心を開くのだ。そしてこのゲイの青年は自分の利益を守るために彼女に触れる。ダンサーは彼の手をそっと押し戻すが、顔は微笑んでいる。彼女は確実になにかから癒されている。

 ダンサーはゲイという社会から疎外されている者によって救われる。それも象徴的だ。そのゲイがダンサーを救うというどんな意図も持っていないことも象徴的だ。ゲイは自分の利益のために行動するに過ぎない。

 それらをアトム・エゴイアン監督の皮肉だと解釈するにはダンサーの微笑みは優しすぎる。

1997/02/28