2016/02/29

スウィート・ヒアアフター


  • 1997年カナダ映画 7/25シネマライズ
  • 監督/脚本:アトム・エゴヤン
  • 撮影:ポール・サロシー 音楽:マイケル・ダンナ
  • 出演:イアン・ホルム/サラ・ポーリー/ブルース・グリーンウッド


 めでたしめでたしで終わりましたとさ。
 どんな物語にも最後に付く紋切型の表現。その表現を題名にした映画は物語をとてても丹念に語る映画だった。

 片田舎のスクール・バスが凍り付いた山道でスリップして崖から飛び出した。それ自体はたぶんごくありふれた事件なのだ。その事件をアトム・エゴヤンは子供を慈しむ母親のように丁寧に丹念に語る。その丁寧な語り口が事件を物語に昇華し普遍的なものに結び付ける。最後には事件は神話的様相を帯びる。

 破滅に向かって進むバスの内部。冬の陽光が窓ガラス越しに入って来て、床が輝いている。子供たちの笑い声。陽気なバスの運転手。

 エアリアル・ショット。山道を走るスクール・バス。その後を子供たちが不安を感じないように子供たちの父親が運転するトラックが追う。スクール・バスもトラックも山道も冬の清々しい太陽で照らされている。カメラがパンナップする。画面一杯に映し出されるパセティックな青を持った空。

 ビデオで捉えられる事故を起したバスの内部。ザラザラした画面の中で子供たちが座っていた椅子が浮かび上がる。バスの天井には穴が開いている。ビデオカメラはその穴の向こうに見えるものを捉えようとして一瞬立ち止まる。

 事件そのものは重要ではない。それらの語り口こそが重要なのだ。それらの語り口が物語を生み出す。こう言ってもいい。それらの語り口こそがありふれた事件を物語へと引き上げるのだ。

 重荷を背負って生きている弁護士も重要ではないと断言しよう。物語は内部からは決して語られない。物語は外部から語られなければならない。だから弁護士はそこにいるのだ。

 町から子供たちがみんな居なくなって、足に障害のある子供だけが残る。その子供は笛ふきの吹く音楽に合わせて踊ることができなかったのだ。その子供は詩的な表現で映画を締めくくるが、たんにこう言うだけでもよかったのだ。

 「スウィート・ヒアアフター」

/* 「sweet hereafter」を「めでたしめでたしで終わりましたとさ」と訳してしまってはあまりにも大胆な意訳でたぶん誤訳でしょう。チラシのように「穏やかなその後」と直訳してしまうのが正解かもしれません */

1998/07/25