2016/02/22

永遠と一日


  • 1998年ギリシャ映画 4/23シャンテ・シネ2
  • 監督/脚本:テオ・アンゲロプロス
  • 撮影:ヨルゴス・アルヴァニテス 録音:ニコス・パパディミトリウ
  • 出演:ブルーノ・ガンツ/アキレアス・スケヴィス/イザベル・ルノー


 潮騒の音から映画は始まる。

 海とは何だろうか。海とは猥雑なほどの過剰な生命力なのだ。真に繊細な人間はその過剰な生命力に畏れを抱き、もし海を間近にするならば、気を狂わせるだろう。海とは魔物なのだ。

 その魔物に対抗するように潮騒の音がする画面には直線と直角で構成された建物が映し出される。直線と直角で構成された建物は理性として在る。理性が魔物が荒れ狂うのを抑制している。そのもの言いが分かりにくいというのならば、魔物を無意識という安易な言葉に置き換えてもいい。『永遠と一日』の冒頭においては理性によって無意識が抑制されている。その抑制が冒頭のシーンに静謐さをもたらしてる。だからここにあるのはスタティックな静謐さではなく、ダイナミックな静謐さなのだ。

 それを証明するかのように、静謐さを基調にしたこの映画において、静謐さはところどころ破られる。その破綻においては、過剰な生命力が溢れ出し、厳密な画面構成が破棄されている。そこでは直線は傾いている。

 けっして熱くならない冷たい理性は直線で象徴されている。海は単独で提示されることはけっしてない。直線とともに提示される。直線で象徴される理性は、海という過剰な生命力を抑制するように働くが、同時に海の持つ魔性を際立たせてもいる。

 この映画の中で一人の少年が海で溺れ、たぶん死んでいく。人間とはおそらく過剰な生命力の中から生まれ、再び過剰な生命力に戻って行く者なのだ。過剰な生命力=海は生を孕んでもいるし、死も孕んでいる。

 まだ少年の詩人は生の輝きに満ちた海の中に入っていき、死を目の前にした老年の詩人は生も死も併せ持った海に対峙する。もう詩人には妻の声も母親の声も聞こえない。詩人の耳は海の声に占められている。その声は「永遠と一日」と詩人に生と死の秘密を語っている。

1999/04/23