2016/02/29

パリ、テキサス


  • 1984年ドイツ映画
  • 監督:ヴィム・ヴェンダース 脚本:L・M・キット・カーソン/サム・シェパード
  • 音楽:ライ・クーダー
  • 主演:ハリー・ディーン・スタントン/ナスターシャ・キンスキー


 前からずっと見るのを楽しみにしていたこの映画が、いまアルゴス・フィルム特集として、日比谷の映画館で上映されているので、さっそく、出かけて見てきました。

 僕にとって、「パリ、テキサス」は、ヴィム・ヴェンダースというよりは、サム・シェパードとライ・クーダーの映画です。砂漠と、地平線を目指して歩く男と、ライ・クーダーのアーシーなスライド・ギター。それが、全ての映画です。男は、最後に、定着ではなく、さすらいを選びます。

 ライ・クーダーが、ブルース、カントリー、ジャズ、更には、ハワイアン、テックス=メックスと遍歴することによって、その音楽を懐の深いものにしたように、男は、さすらいによって、その生を深めるのでしょう。

 サム・シェパードの映画としてみるならば、この映画は、言葉、或いは、コミュニケーションを主題とした映画です。

 愛する2人から、炎の中に置き去りにされた、男は、記憶を失い、話すことを拒絶します。その男が、再び話だし、記憶を取り戻すきっかけとなったのは、「パリ」という言葉です。そこは、男の父親と母親が、初めて愛し合ったところ。男の生命の出発点です。ここにおいては、言葉、言い換えれば、コミュニケーションは、生命(いのち)そのものであることが示されます。

 置き去りにした子供が、男との繋がりを確認するのは、家族フィルムによってです。男の膝に上にのって、自動車のハンドルを取る自分を見て、子供は、始めて、心を開きます。その子供が、男に向かって、自分を置き去りにしたことに対して、恨みを言うのは、トランシーバーを通してです。子供は、地球に子供を残して、光速宇宙船に乗って飛び立った男の話をトランシーバーでします。光速で飛ぶと、時間の流れが遅くなるから、男が地球に帰り着くと、子供は、既に老人だったという話です。フィルムとトランシーバー。その2つのものによって、男と子供は、心を通い合わせる。逆に言えば、その2つのものによってしか、心を通い合わせることができない。コミュニケーションの難しさが、ここでは問題になります。

 男が、妻と再会するのは、ミラー・グラス越しです。男からは、妻は見えるが、妻からは、男は見えない。男は、そこで、妻の無防備で裸の表情をまざまざと見て、自分が、妻を深く愛しているが、妻を決して理解できないことを悟ります。そして、男は、子供にテープレコーダーを使って告げます。俺には、(お前と、ママと、俺の3人で暮らすという)大きな夢があった。しかし、それができないことが分かった。俺は、旅立つ。お前は、ママと暮らせ。ここで登場するのは、ミラー・グラスとテープレコーダーです。ここでも、コミュニケーションの難しさが、問題になります。言葉は、ある意味で無力です。これらのものがなければ、心は、届きません。

 最後の場面、母親と子供は、再会します。この2人は、だだ抱き合うことによって、心を通い合わせます。人間同士のコミュニケーションに難しさを語ってきた、サム・シェパードは、ここでは一転して、人間同士のコミュニケーションの可能性・希望を示します。それは、感動的なものでした。

1995/04/01