- 1966年東映京都撮影所
- 監督:マキノ雅広
- 主演:高倉健/藤純子/鶴田浩二
いま、東京国立フィルムセンターでは、マキノ雅広の特集をしています。
加藤泰の「緋牡丹博徒・花札勝負」で、匂い立つような男の女の情感を見せてくれた、高倉健と、藤純子が、主演だということで、見てきました。
一番の印象は、優れた娯楽作品だということでした。抜くべきところでは、抜いているので、緊張した場面が生きていました。見ている人達も、笑うべきところでは、おおいに笑い、主人公達が、怒りを爆発させるところでは、ぐっと画面に入り込むという感じでした。藤山寛美の存在が大きかったです。
’66年の作品です。
僕は、高倉健と藤純子、鶴田浩二と野際陽子の関係が印象に残りました。そこでは、エロスは、悲劇的高みに高められていました。それは、高倉健と鶴田浩二が、モラルを信じ、あくまでもモラルに忠実であるからでしょう。鶴田浩二は、激しい恋心ゆえに、野際陽子と、関西から、東京に駈け落ちしますが、彼女に指1つ触れようとしません。それは、モラル=仁義のためです。野際陽子は、鶴田浩二のもとで死ねるのなら本望だと言い切りますが、それは、鶴田浩二の思いでもあるはずです。しかし、彼が選ぶのは、愛死ではなく、モラル=仁義ゆえの死です。エロスを禁忌を破るものだと定義するならば、ここでは、モラルが、禁忌として立ち塞がり、エロスを高みへと、映画の冒頭の青空にまで高めているのです。
2つのシーンが印象に残りました。
高倉健が、藤純子に対して、自分は、どんな思いも抱いてないと言い切ったときに、鶴田浩二が声を掛けます。あんな啖呵切るもんじゃない。一緒になれなくなる。惚れているんでしょう。鶴田浩二は、高倉健の、肩に優しく手を置く。高倉健は、その手に自分の手をそっと重ねたのでした。
人の血を吸った、日本刀を高倉健が、左手で握っている。左手は、硬直し、日本刀から離れない。その左手の指の1本1本を藤純子が、日本刀から引き離すのです。2人の思いが、凝縮されているようなシーンでした。
1995/06/17