2016/02/26

山椒大夫


  • 1954年大映映画 7/6NFC
  • 監督:溝口健二 脚本:依田義賢
  • 撮影:宮川一夫 美術:伊藤熹朔
  • 出演:田中絹代/花柳喜章/香川京子


 原作は森鴎外だが、その森鴎外の文体が古典主義的であるように、この映画も古典主義的であり、理知的に物語が語られる。

 感情を排するために、クロース・アップは極力使われず、ミドル・ショットを中心に構成される。それら中心となるミドル・ショットでとりわけ特徴的なのは、そのショットの中に中心となる人物だけでなく、他の人物も写し込まれているということだ。ここで試みられているのは、特定の人物への感情移入の阻止だろう。観るものの視線はけっして特定の人物に制約されず、常にある広がりを持って在る。それは重要なことだ。
 例を出した方がいいかもしれない。最後のシーンだ。ここでは中心となる人物以外の人物の写し込みはないが、母親と息子の再会というクライマックスにおいて、カメラはパンし、老いた漁師を捉える。重要なのはここで生じる広がりなのだ。観客はカメラのパンによって母親と息子への感情移入から引き離され、もう一つ大きなものに目を向ける。老いた漁師は苛酷な自然に打ちのめされても、生きる営みを続けている。そこにおいて『山椒大夫』のテーマが現れる。

 『山椒大夫』は母親とその子供たちの悲劇を物語ろうとしているのではない。この映画で問われているのは世界の苛酷さ、非情さなのだ。だから特定への人物への感情移入は阻止されなければならない。
 世界の苛酷さ、非情さは人間がその本性として持っている人間の欲望の深さ、強さによって生まれるのだから、誰も逃れることはできない。それならば問題はその世界の苛酷さ、非情さの中でどう生きるかが問題になる。ここで青山真治監督の『シェイディー・グローヴ』の主人公の言葉をそのまま借りるならば、酷い人間になって生きるのか、或いは『山椒大夫』の家族の父親のようにあくまでも「慈悲の心」を持って生きるのか、それとも人買いである山椒大夫の息子のように世界の苛酷さ、非情さをそのまま受け入れ、諦念の内に信心の中で生きるのか、ということが問題になる。
  それを追及したのが『山椒大夫』なのだと言えるが、上で例に出したシーンにおいてその追及はもう一つ大きな広がりの中に置かれる。津波によって村人のほとんどの命を奪われても、それを受け入れ、老いた漁師は営々と生きる営みを続ける。ここにおいては世界の苛酷さ、非情さはたんに負的なものでなく、一つの美しさを持ち始める。

 最後のシーンでのカメラのパンは世界の持つ苛酷さ、非情さはそのまま神の慈悲なのだという宗教的テーマを提示する、とここで言うならば、まだまだ言葉が不十分なので、失笑されるかもしれないが、僕はそう感じたのだった。

1999/07/06