2016/02/26

女優須磨子の戀


  • 1947年松竹京都撮影所 5/12NFC
  • 監督:溝口健二 脚本:依田義賢
  • 撮影:三木滋人 音楽:大澤壽人
  • 出演:田中絹代/山村聰/毛利菊江


 画面の端正さに打たれる。

 光は基本的には左に置かれている。須磨子が抱月との別れを強要される場面では照明が左側にあるガラス戸の外に設置されている。その後須磨子と抱月が話し合う場面でもガラス戸が左側にあり、その外に照明がセットされている。光の位置が統一されているので端正さが生まれる。
 物も含めた登場人物たちの構図は基本的には三角形が選択されている。先ほど例にとった須磨子が抱月との別れを強要される場面を再び取り上げると、三角形の頂点に坪内逍遥がいて、左側の底辺の端に須磨子が座り、右側の底辺の端に逍遥の妻がいるという配置になっている。抱月が逍遥に辞表を渡す場面も三角形の構図が取られている。この場面でも三角形の頂点に逍遥がいる。左側の底辺の端には机があり、右側の底辺の端に抱月が座っている。構図が三角形で統一されているので端正さが生まれている。
 画面の端正さを生んでいるのは奥行きのある構図が取られていることも要因となっている。抱月が須磨子に稽古をつけているシーンを例に取ろう。画面の手前では抱月がほとんど鬼になって須磨子の演技指導をしている。奥ではスタッフたちが舞台のセットを一生懸命になって作っている。もちろんメインとなるのは稽古シーンなのだが、画面の奥で展開するシーンにも溝口監督の神経は行き届いている。こう言ったほうがいいかもしれない。奥行きのある構図をとり、かつ画面の奥までも神経を行き渡らせている完璧主義が端正さを生んでいる。

 でも本当に心を打たれるのはその端正さが壊れる時だ。抱月の死後、須磨子は狂気にほとんど捕らわれてしまうが、抱月の死後、光の位置は不定になる。ロウソクの光が右側に置かれて画面に現れるときは軽い衝撃を受ける。三角形の構図も崩れる。そしてそれらの崩れは誰もいない静かな劇場の朝の清浄な陽光に照らされた幕へと収斂するのだ。朝の陽光に照らされた幕は端正な美しさを持っている。そして須磨子の自殺が伝えられる。

1998/05/12