2016/02/17

農夫の妻


  • 1928年イギリス映画 12/19NFC
  • 監督/脚本:アルフレッド・ヒッチコック
  • 撮影:ジャック・コックス
  • 出演:ジェームソン・トーマス/リリアン・ホール=デイヴィス/ゴードン・ハーカー
  • 弁士:澤登翠 ピアノ伴奏:柳下美恵


 英国時代のヒッチコックのサイレント・コメディー映画を今年弁士生活25周年を迎える澤登翠さんの的確で軽妙な弁士付きで観るという、僕にとっては少し早いけれども最高のクリスマス・プレゼントだった。フィルム・センターのホールをぎっしりと埋めた人たちも映画が終わった後、澤登翠さんに心から拍手して、満足げに冬にしては暖かい夜の街へと出ていった。

 陽光に包まれた農場の超ロング・ショットが提示され映画は始まる。農場の標識のクロース・アップ。カメラはゆっくりとパンする。立派な屋敷。ロングで窓から姿を見せている農夫というか農園主である紳士が捉えられる。紳士の表情は曇っている。ショットが切り替わる。農園主である紳士が眺めている陽光に包まれて明るく輝く農園の様子が次々と映し出される。二匹の可愛い犬たち。カメラは二匹を追い、屋敷の中に入っていく。明るい農場と暗い屋敷の中。屋敷の中では紳士の妻が死の床についている。

 冒頭のカメラ・ワークを紹介してみたが、これからも分かるように既にヒッチコックは映画話法において完成されている。ヒッチコックがハリウッドに赴いたとき、既に彼は完成された映画監督だったのだ。これは何度も言われていることだ。でも生と死を陽光に包まれた明るい農場と暗い屋敷の中で対比させる手腕には、とりわけ両者を二匹の犬を使って結び付ける手腕には改めてヒッチコックの職人芸を見て感嘆する。

 冒頭の陽光に包まれた明るい農場は、この映画の基調音となる。妻の死はこの映画の唯一の悲劇だが、その悲劇は家政婦に対する、「夫の"pants"を乾かすのを忘れないで」という紳士の妻の今際の言葉によって薄められる。"pants"はズボンと訳されていたが、下穿と訳したほうが適切だ。暖炉の炎によって、或いは陽光によって乾かされる紳士の下穿のショットが次々に映し出される。それらのショットはこの映画に軽快なリズムを与える。上手いなあと思うのは妻の今際の言葉がそのまま結末を暗示していることだ。紳士は「妻は再婚を勧めたが相手の名前までは言わなかった("She didn't name names.")」と言うが、紳士が気付いていないだけだ。

 妻を亡くして5年経ち、娘を紳士は嫁がせる。紳士は寂寥感に襲われる。そこから紳士のコミカルな再婚相手探しが始まる。その過程で田舎で暮らす中年の女性たちの個性が際立たされるのが可笑しい。とりわけ繊細さを気取っている婦人が野性味のある粗雑な召使に惹かれるのを暗示している場面が僕には可笑しかった。なんだかとてもヒッチコックらしいなと感じた。

 ヒッチコックらしいと言えば、女主人が車椅子を押す召使に命じる場面で、澤登翠さんがアド・リブで「進路は北北西よ」と弁じたときにはホールが沸いた。

 映画を観続けていて良かったなと思った。

1998/12/19