2016/02/28

愛の集会


  • 1963年イタリア映画 9/28ユーロスペース
  • 監督/脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
  • 撮影:マリオ・ベルナルド
  • 出演者:アルベルト・モラヴィ/オリアナ・ファッラーチ/チェーザレ・ムザッティ


 この性に関するイタリア国民のインタヴュー集において、パゾリーニはかなり真剣だ。

 パゾリーニの関心はイタリア国民の性意識に在るというよりも、性意識の在り方が明らかにするイタリア国民の本質(正体)に在るように見える。その本質(正体)の前でパゾリーニは絶望する。

 このインタヴュー集には、パゾリーニ自身が言うように、大きな欠落がある。ブルジョアのインタビューが無いのだ。彼らはパゾリーニのインタヴューに応じない。この映画ではそれはブルジョアが性に恐怖を感じているからなのだと分析されている。ともかく大きな欠落を認めた上で、パゾリーニはこう包括する。

 北部(都市部)においては、伝統的な性意識は崩壊してるが、崩壊しながらもその残骸がまだ人々の性意識に影響を与えている。その人々はまだ新しい性意識を確立していなくて、伝統的な性意識の残骸の影響の下で混乱している。
 南部(農村部)においては性意識は明確だ。そこでは伝統的な性意識が毫も傷つかず生き延び支配している。
 そう分析しながらパゾリーニは絶望するのだが、それは明らかになったイタリア国民の性意識によってではなく、インタヴューそのものが成り立たないからだ。パゾリーニは性意識の奥底に到達したいのだが、人々は「隠す者」として立ち塞がる。ある人々はインタヴュアーとしてパゾリーニが発する「性」という言葉に聞こえないふりをする。

 イタリア国民は性において強く抑圧されていて、性から目を逸らそうとして、性的存在としての自分をきちんと把握していない。抑圧を一番広い意味での社会的な規制だとすると、パゾリーニはイタリア国民がいまだ個人的自由に達していないことに気付く。そこにおいてパゾリーニの絶望が生まれるのだ。

 ラストにおいてパゾリーニは玉砕覚悟でストレートにイタリア国民の性意識に突撃する。パゾリーニが発する問は売春宿は無くすべきものなのかという問だ。パゾリーニはその突撃で旧態依然とした動物的レヴェルに留まる性欲望に出会う。ここには自由はない。欲望への盲従があるだけだ。

 パゾリーニはたぶん、たとえ欠片でもいいから、自由に溌溂として生きる人間を見出そうとして、このインタヴューを始めたに違いない。結果は全く正反対の人間をイタリア国民の中に見出した。イタリア国民は性に囚われ、自由な人間と反対の人間になっている。

 性は重要だ。なぜならそれは生の根幹に関るものであり、性をしっかり見つめそれが自分の生に対して持っている意味を見極めなければ、生は輝きを失うからだ。
 『愛の集会』の後パゾリーニの関心が性に強烈に集中されるのは当然だろう。

1999/09/28