2016/02/28

アポロンの地獄


  • 1967年イタリア映画 6/9ユーロスペース
  • 監督/脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
  • 撮影:ジュゼッペ・ルッツォリーニ 美術:ルイジ・スカッチャノーチェ
  • 出演:シルヴァーナ・マンガノ/フランコ・チッティ/アリダ・ヴァッリ


 ピエル・パオロ・パゾリーニは天衣無縫にほとんど無邪気にも語れるが、厳密に計算しても語れる。

 おぞましい悪を秘めた物語をパゾリーニは緻密に計算して語る。厳密な計算に基づいた語りを古典主義と呼ぶのならば、この映画はパゾリーニの古典主義の一つの頂点だろう。

 この映画をパゾリーニにおける母親との関係から、精神分析的に分析して、この映画を分かったつもりになる人がいるならば、その人は完全にこの映画を見損なっている。というよりも全くこの映画を観ていないのだ。

 冒頭のパンで捉えられる木立。その少し長すぎるパンは木立が空を水平に切り取るのを捉えるとぴたりと止まる。
 そのパンはラストでもう一度繰り返され、今度は画面一杯に草原を捉えてぴたりと止まる。
 これら二つのショットが響き合い、生み出すハーモニーにこそ耳を澄ますべきなのだ。

 一つ一つのショットは計算されて置かれている。どのショットも無駄なショットはない。どのショットも物語という建物を構成する要素なのだ。計算されて配置されたショットが調和の取れた理知的な建物を築き上げ、世界の悪を凝縮したような建物=物語の重さを支える。

 パゾリーニは繰り返しを意識的に使っている。ショットの繰り返しが画面に理性を与え、その理性が悪の出現に堪えられる強さを画面にもたらすのだ。

 そして悪が出現する。青年は一人の女性をたとえ母親であっても愛するのではなく、母親であるが故に狂おしく愛するのだ。

 激しいパンの直後のフィックスで捉えられた画面一杯の緑。そこで映画は終わるが、その緑に向かって収斂するようにこの映画は組み立てられている。『アポロンの地獄』は見事な古典主義の映画だ。

1999/06/09