- 1932年フランス映画 3/23NFC
- 監督/脚本:ルネ・クレール
- 撮影:ジョルジュ・ペリナル 音楽:モーリス・ジョベール
- 出演:アナベラ/ジョルジュ・リゴー/ポーラ・イレリー
ルネ・クレールのユーモア感覚は自由奔放で、時に暴走する。『最後の億万長者』1934は暴走した例だろう。
『巴里祭』においてはルネ・クレールのユーモア感覚は抑制され、この静かな悲しみに包まれた幸福感に満ちた映画を支えている。
ルネ・クレールのユーモアの特徴として、繰返しが挙げられる。
例えば『イタリアの麦藁帽子』1927では、帽子店で婦人客の帽子が踏まれるが、そのギャグは何度も繰り返される。繰り返されながら、次第にそのギャグは強まっていく。繰返しによるユーモアのクレッシェンドと名付けるといいかもしれない。
この「繰返しによるクレッシェンド」はユーモアだけでなく、ルネ・クレールの映画技法の中で重要な手法の一つになっている。
『巴里祭』でもその手法は際立っている。冒頭で雨が降り恋人同士が雨宿りするシーンは、ラストでもう一度繰り返される。その繰返しは単なる繰返しでなく、その繰返しの中で二人の感情は深まり、高まっている。
こんなふうに説明するといいかもしれない。同じメロディーを繰り返すことによって、それらのメロディーの微妙な違いが浮かび上がり、聴く者の心を動かすのだ、と。
同一の対象を繋ぎとして場面を変換するのもルネ・クレールの特徴的な手法として挙げることができる。
陽光に包まれ祭の準備に追われる広場。カメラが提灯にクロース・アップする。提灯に明かりが灯る。カメラが引く。するとそこはもう夜の人々が踊り騒ぐ広場なのだ。
『巴里祭』では若い女性の恋人を呼ぶ声が繋ぎとして使われていたが、この声の繋ぎには心を動かされた。恋人を切実に呼ぶ声はけっして恋人に届くことはない、その絶望をこの声による繋ぎは見事に表現していた。
ルネ・クレールの技術面ばかりに触れたが、『巴里祭』という静かな悲しみに包まれた幸福感に満ちた映画についてなにを書けばいいというのだろう。その不思議で心を動かす幸福感は言葉の中にはない、『巴里祭』という映画の中ではじめて存在することができるのだ。
1999/03/23