2016/02/29

フェリシアの旅


  • 1999年カナダ映画 4/17シネマライズ
  • 監督/脚本:アトム・エゴヤン
  • 撮影:ポール・サロシー 音楽:マイケル・ダンナ
  • 出演:ボブ・ホスキンス/エレーン・キャシディ/アルシネ・カーンジャン


 オープニング・ロールとエンド・ロールとの対照が印象的だ。その対照には静謐な救いとでも言うべきものがある。オープニング・ロールでは絶望的な孤独から逃れるためにモンスターとなった男が住んでいる室内の様子が計算されたカメラ・ワークで映し出される。映像はスタイリッシュでありながら、不気味だ。それはその映像が男の内面そのものの表現となっているからだ。身も心も凍り付いてしまうような孤独。その孤独の中に捕われている男。エンド・ロールは室外の景色が映し出される。仰角で捉えられる木々と空。ここでもカメラ・ワークは計算され尽くしたもので、カメラに空が入ったところでカメラは動きを止める。明るい空。自分が孤独であることを認めた男に訪れる救い。でもカメラは動きを止めた後、また動き出す。最終的にカメラが止まるのは一本の木でだ。そこでは闇と光が共存している。エゴヤン監督は僕たちに男の孤独を受け渡して映画をクロージングする。

 連続殺人をテーマにした映画は何本も撮られてきたし、これからも撮られるだろうが、この映画はそれらの映画の頂点に立つものの一つだろう。僕たちは連続殺人者の魂に真正面から向かい合う。
 モラル的な面から言えばこの連続殺人者は僕たちよりも遥かに下の人間だが、生という面から見るならば、この連続殺人者は僕たちよりも遥かに上の人間だ。彼は僕たちが忘れた振りをしている孤独と日々向かい合って生きている。それだけでも彼は称賛されるべきなのだ。ある意味から言えば、彼は戦いから逃げていない。たとえその戦いが負のとしか評価のしようのないものであったとしてもだ。

 彼は最後に似非信者たちの前で自分の完全な敗北を認めるが、僕はその敗北を評価したい。彼は戦い抜いて負けたのだ。戦いそのものを避けている僕たちとは全く違う。彼こそは救われる資格がある者だ。

2000/04/17