- 1940年アメリカ映画 12/18NFC
- 監督:ハワード・ホークス 脚本:チャールズ・レデラー
- 撮影:ジョゼフ・ウォーカー 美術:ライオネル・バンクス
- 出演:ケーリー・グラント/ロザリンド・ラッセル/ラルフ・ベラミー
この映画でとりわけ印象的なのは、主人公である女性新聞記者がまだ新聞記者がやくざ稼業で、新聞記者たちが荒くれ者たちだった頃にあって、男たちと互角或いはそれ以上に渡り合い、溌剌と生き生きと仕事を進めることだ。1940年代にあってハリウッド映画の女性像は1990年代の女性像以上に解放されている。なぜこの女性像が1950年代家庭的な女性像に後退したのかという問題は興味深い問題だが、ここでは放っておこう。
チラシにはもともとこの記者役は男性だったと記してあるが、その記者役を女性が演じても不自然でないものが当時のアメリカ社会にはあったということをこの映画は証明しているし、その当時のアメリカ社会にあったおそらく自由で解放された雰囲気が、この映画に命を与えて、溌剌と生き生きしたものにしているのだと想像されもする。
マシンガンのように会話を交わすケーリー・グラントとロザリンド・ラッセルとの間にあるものを名付けるとしたら溢れるようなエネルギーだが、そこに1940年代のアメリカ社会の持っていた活気がはっきりと感じられてそこに強く惹かれる。
会話のスピードはこの映画の魅力の一つだ。僕の語学力が低いということも大いに関係しているが、耳で追おうとしてもその先にエネルギーを見せびらかしながら行ってしまう会話の速さはとても楽しい。
ストーリーというか筋も、複雑ではなくシンプルだが、超スピードで進んでいって気持ちがいい。そんなことはあり得ないが、江戸時代の江戸っ子がこの映画を観たら拍手喝采を送ったのではないだろうか。
最後にもう一度繰り返すとこの映画を魅力的にしているのは女性像だ。活気に満ち溢れていて、さっぱりした「男性的」女性。やはりどうしてこの女性像が失われてしまったか問わずにはいられない。
1999/12/18