2016/02/29

孤独な場所で


  • 1950年アメリカ映画 8/7シネ・ヴィヴァン・六本木
  • 監督:ニコラス・レイ 脚本:アンドリュー・ソルト
  • 撮影:バーネット・ガフィ 音楽:ジョージ・アンセイル
  • 出演:ハンフリー・ボガード/グロリア・グレアム/アート・スミス


 静かな音楽。正装した男と女。二人はテーブルに座っている。男がタバコを取りだし、小振りのライターで火を付ける。タバコを女の口に持っていく。女は驚くが、すぐに微笑み男の差しだしたタバコを銜える。微笑みを浮かべながら、タバコを吸う女。男はもう一本タバコを取りだし火を付ける。タバコを一口吸い、顔を女の耳に近付ける。何事かを囁く。笑う男と女。

 そのワン・シーンだけでも僕はこの映画を愛する。
 この映画は深刻な心理劇なのだが、そう断定してしまえば、この映画の持つ魅力はたちどころに無くなってしまう。この映画の魅力は語られる内容にではなく、語り方そのものにある。そしてその語り方の中にこそこの映画の主題はある、と言い切ろう。

 男と男、男と女の間で交わされるせりふが素敵だ。けっして難しい単語は使われていない。ありふれた単語を使って実に洒落た会話をしている。僕に英語力があるのなら、具体的に示せるだが・・・と残念だ。
 グロリア・グレアムのディクテーションがとても耳に心地いい。実に歯切れがいい。いいなあ。彼女のディクテーションも映画の魅力の一つになっている。

 この映画を深刻な心理劇だと言ったが、そう言ってしまえば、誤解を招くかもしれない。この映画は深刻顔をして人間心理の奥底に迫るようなもったいぶった映画ではけっしてない。純粋に娯楽作品として見ても、実に優れている。映画を観る者を引っ張っていくのは心理劇ではなく、ミステリーだ。殺人事件が起こり、主人公に疑惑がかけられる。観客にも犯人は知らされない。果たしてこの疑惑をかけられた主人公は犯人なのだろうか、そうではないのだろうか?その興味が観客を映画の中に引摺り込む。
 この辺りは実に巧みだ。最初に主人公が権力に靡かず、弱き者を助ける者だということを示して、観客を主人公に感情移入させる。殺人事件が青天の霹靂のように突然起った時、観客は主人公を露程も疑わない。そこからがニコラス・レイの演出者としての巧みさなのだが、その地点から逆に少しずつ疑惑を主人公に持たせていく。主人公は自分が犯人でないことを断言しない。観客は混乱し、真相はどうなのだろうと引き込まれるのだ。

 大げさに言えば、その真相解明の中で観客は主人公という一人の人間と面と向かい合わなければならなくなる。一人の人間を受け入れるということはどんなことなのか?それは「孤独な場所で」観客が答えなければならない問題だ。
 そして真剣にその問に答えようとするならば、誰しもこんな言葉を発せざるを得ないのだ。

 「狂人とは一緒に暮らせない」

 人間とは「孤独な場所で」生きざるを得ないものなのだろう。

1998/08/07