2016/02/29

大砂塵


  • 1954年アメリカ映画 8/18シネ・ヴィヴァン・六本木
  • 監督:ニコラス・レイ 脚本:フィリップ・ヨーダン
  • 撮影:ハリー・ストラドリング 音楽:ヴィクター・ヤング
  • 出演:ジョーン・クロフォード/スターリング・ヘイドン/マーセデス・マッケンブリッジ


 劇的葛藤が重層的に重なり合っていて、ニコラス・レイが改めて舞台から出発した人だということを思い出した。

 人間社会で女であるということ。土地の者と他所者。古典的な三角関係。新しいものと古いもの。愛と憎しみ。ギターとガン。子供と大人。忠誠と反抗。信頼と裏切り。それら相反した音を同時に響かせながら、それらの音響をニコラス・レイは幾重にも組み合わせてみせる。そこに『大砂塵』という映画は成り立っているのだ。

 僕は子供が子供であることをさらけ出してしまうシーンに惹かれた。
 その子供は危ない橋を渡ったこともあるし、ガンの腕にも覚えがある。その子供は自分を一人前の大人だと考えている。その子供がその子供の愛する人を裏切れば、命を助けてやると脅される。その子供はいかにも子供らしく愛する人を振り返り、どうしたらいいと訊く。その子供は誇りを取って死ぬか、卑劣漢となって生き延びるかというのっぴきならない選択を迫られながら、いかにも未完成な人間らしくその選択を他人の手に委ねてしまうのだ。
 僕が惹かれたのは、子供が子供であることをさらけ出すのに接した大人の態度だ。その大人は子供が子供であることを受け入れ、つまり子供を許し、かつ、その子供のために身を投げ出す。その大人はこう言うのだ。

 "Save yourself."

 大人であるということがどんなことであるのかをこれほど厳しく、また美しい描いたシーンを僕は他に知らない。

 その大人はけっして強い人間ではない。そんなふうにはニコラス・レイは描いていない。その大人は死に接すれば不安と恐怖で涙を流しもする。その大人は強くあろうとしている人間なのだ。僕はそこに心を動かされる。

 異常な状況を差し引いてみれば、この映画は月並みなメロ・ドラマだ。しかしそのメロ・ドラマはこの映画においてはなんら重要ではない。そのメロ・ドラマを通してくっきりと浮き彫りにされる人物像こそが重要なのだ。
 その人物は女であるということにおいて既に肉体的に弱い存在だ。また恋に傷付いた人間であるという点において心の弱い人間でもある。その人間が己の全存在を賭けて世界と向き合って生きている。この人物の向こうに僕はニコラス・レイを感じ、この人物を愛したのだった、と少しセンチメンタルに書いてこの文章を終わろう。

1998/08/18