2016/02/29

暗黒街の女


  • 1958年アメリカ映画 8/31シネ・ヴィヴァン・六本木
  • 監督:ニコラス・レイ 脚本:ジョージ・ウェルズ
  • 撮影:ロバート・ブロナー 音楽:ジェフ・アレキサンダー
  • 出演:ロバート・テイラー/シド・チャリシー/リー・J・コップ


 非米活動調査委員会の証人喚問のことを思った。ニコラス・レイははっきりした政治的な主義主張があった人ではないだろう。彼の政治への関り合いは、彼らしく感情的なものだった、と言っても間違いではないだろう。しかし非米活動調査委員会の証人喚問は彼に深い影響を及ぼした。それがこの『暗黒街の女』を観ても痛いほど伝わってくる。

 ギャングのために弁護士をしている男が女と出会い、再生する物語とこの映画を解釈してもそれは間違いではないし、それこそが正しい観方なのかもしれない。それでもしかし、この映画の中心は男と女の愛にあるのではなく、二人の男の友情にあるのだ。センチメンタルにこの映画を解釈するならば、この映画は男らしくあろうとして挫折した男たちの物語なのだとも言える。

 男たちの友情は裁判によって壊される。弁護士は女を守るために証言を拒否するのではなく、友情故に弁護士は証言を拒否するのだ。そしてそのことをギャングのボスは知っている。その友情を国家権力は許さない。国家権力は証言しなければ、女を危険に晒すと弁護士を脅し、弁護士はその脅しに屈服する。人と人との結び付きが国家権力の強制によって破壊される。そのことを非米活動調査委員会証人喚問を通してニコラス・レイは見て強く心を動かされたのだろう。その時ニコラス・レイはつくづくと権力の顔を見たのではないか?権力の顔を見たニコラス・レイの感想がこの映画なのだ。

 少年の頃自分の男らしさを証明しようとして弁護士は片足の自由を失った。その結果弁護士は人を快楽のために殺す人間に無罪を与える人間に成り下がっている。ギャングのボスは少年の頃から自分の男らしさを証明するためにより強い者に向かっていった。そしてけっきょくギャングのボスは人を暴力で脅す人間に成り下がっている。二人の男はそこにおいて共鳴するのだ。男らしくあろうとしてそれと反対の人間になってしまった男たち。

 ギャングのボスは国家権力の手によって殺され、弁護士は生き延びる代わりに裏切り者、卑怯者となる。国家権力はこれら男らしくあろうとした男たちを完膚無きまで叩き潰す。
 『暗黒街の女』は非米活動調査委員会によって社会的に抹殺された人々、そして社会的に生き延びるために裏切り者となり深く傷付いた人々に対するレクイエムなのだ、と奇妙に聞こえることを承知で僕はあえて言おう。

1998/08/31