2016/02/23

クレーヴの奥方


  • 1999年ポルトガル映画 6/12銀座テアトルシネマ
  • 監督/脚本:マノエル・ド・オリヴェイラ


 原作はラ=ファイエット夫人。フランス心理小説の先駆をなす小説だ。フランス心理小説はその名の通り登場人物の心理を問題にする。心理をいかに的確に捉え、描写するか。心理から人間を理解しようとする。そこには解剖医の手に似た冷徹な作者の目が働く。いずれにせよ、問題になるのは内面なのだ。
 そのような小説を原作としようとした時、オリヴェイラ監督には当然野心があったはずだ。映画とはあくまでも外面に留まる。そこにそ映画の可能性があるのだが、その外面に留まる映画で心理小説をどこまで映画の中に取り込むことができるか。
  でも映画を観る時、そのような野心をオリヴェイラ監督は放棄しているように思える。登場人物の内面は語ることによって表わされる。映画的なもので捉えられる訳ではけっして無い。イメージはあくまでも挿し絵、それは飛切り美しい挿し絵なのだが、に留まっている。
 そのように感じながら、映画を観続けて行く内にオリヴェイラ監督のメッセージが伝わって来る。イメージとは表現手段ではない。イメージとはなにかの道具ではないのだ。イメージとはそれ自身で成り立つなにものかなのだ。そんなメッセージが伝わって来る。
 オリヴェイラ監督はあえて内面が主体である小説を選び、かつその内面は会話で補い、イメージがどんな表現手段にもならないようにして、イメージが本来持っている生命を守ろうしているように僕には思える。
 イメージが持つ命。それがこの巨匠が到達した地点なのだろうか?いずれにせよ、ここにあるイメージは美しい。

2001/06/12