2016/02/26

雨月物語


  • 1953年大映映画 6/1NFC
  • 監督:溝口健二 脚本:依田義賢
  • 撮影:宮川一夫 美術:伊藤熹朔
  • 出演:森雅之/京マチ子/田中絹代


 遠くで響く鉄砲の音と、その音に不安げな表情をする三人の親子。権力を求めて人が人を殺す戦が二人の心から妻を愛する男たちの欲望に火を付け、その男たちを人でないものにする。

 あの凄いような深い霧から滑り出るようにして現れる小舟は人間の欲望の持つ闇を象徴しながら、その後に続く幻想の世界を予感させる。

 一人の男は幻想の世界で欲望の持つ空恐ろしさを体験し、もう一人の男は戦という人と人の欲望がぶつかり、浅ましく争い合う場で欲望の空しさを知る。
 幻想の世界と戦の場は互いに共鳴し合いながら、互いの世界のテンションを上げていく。

 京マチ子の演技が印象に残る。足の運び方、手の動き等、身体の動きで現実の世界から幻想への世界へと映画を滑り込ませていく。気付けばそこは幻想の世界であり、夢幻の時間が流れていく。そしてその夢幻の時間の流れを支えているのが京マチ子の身体の運動なのだ。空間を京マチ子の身体が緩やかな線を描きながら流れるとき、幻想の世界ははっきりと存在し始める。
 エドガー・アラン・ポーはその語りによって怪奇の世界に読者を引摺り込んだが、京マチ子は身体の動きによって観る者を怪奇の世界に読者を引摺り込む。

 田中絹代の演技は京マチ子の演技と対照的だ。映画の終盤、観客は田中絹代演じる女性がもはや人間でないことを知っている。田中絹代の身体は日常生活における動きを正確になぞる。その正確な「トレース」が観る者に人間でないものとして現れたこの女性の思いの深さを伝えるのだ。ごくごく普通の幸せを望んだ女性のその願いの深さが人間でない女性が描く日常的な身体の動きに端的に現れていて観る者の心を打つ。

 考えてみれば田中絹代演じる女性の願う幸せも、京マチ子の演じる女性の願う幸せも極く平凡な幸せだ。平凡だからこそ二人の女性のそれらの幸せに対する情念は深く激しくなる。その彼女たちの情念の深さが幻想の世界を現出させるのだ。

 幻想の世界で展開する物語が悲劇だとするならば、戦の場で展開する物語は喜劇だとすることができるだろう。どちらも女性の持つ情念の激しさを描きながら、共鳴し、印象的な音楽を聴かせてくれる。

1999/06/01