2016/02/29

ベニスに死す


  • 1971年イタリア=フランス映画 8/17ル・シネマ
  • 監督:ルキノ・ヴィスコンティ
  • 出演:ダーク・ボガード


 初老を迎えた音楽家。彼は心臓病で倒れ、砂時計に託し死への不安を語る。砂時計にカメラは焦点を合わせること無く、砂時計はぼやけている。そのぼやけた砂時計はラスト・シーンの海の中に立つ少年に繋がる。少年のシルエットは光の中に融け込み、滲んでいる。海の輝きの中で少年が腕を誘うように上げるとき、初老の音楽家はその誘いに応じて腕をさし伸べる。夏の残酷なほど強い陽光の中で上げられた腕は挫折したように下ろされる。美化粧がかえってその老いの醜さを際だたせた初老の音楽家は人のほとんどいないがらんとした明るい砂浜でほとんど無作法に息を引き取る。

 オープニングが印象的だ。黒い背景にシンプルに白の文字でクレジットが表示されていくと思っていたら、その黒い背景は夜明け前の海なのだ。その海を初老の音楽家を乗せた客船が優雅に進んで行く。夜が次第に明けていく。夜明けの海で働く漁師たちのシルエット。やがてベニスの街がその姿を見せる。ここにあるのは官能の予感なのだ。ゆったりとした優雅な官能の予感があって、そこに美が登場する。

 初老の音楽家はその美から慌てふためいて逃げ出そうとする。初老の音楽家が生涯懸けて追い求めたのは、古典的美、彼の友人の揶揄的言葉を借りるならば、努力によって作られる美なのだが、ベニスで彼の前に現れた美はまったくの偶然的な天賦の美なのだ。その美に惹き込まれるならば、彼は自分の仕事の全てを否定することになる。彼は芸術を人間の尊厳性を高めるものだと信じているが、もし彼の前に現れた美を認めるならば、芸術を邪悪なものだと肯定することになる。その美は官能が生み出したものであり、理性とは対極に在るものだからだ。

 初老の音楽家の逃亡は偶然の出来事によって阻止される。阻止されることによって、初老の音楽家は心から幸せそうな表情を浮かべる。その時、初老の音楽家は自分が心血を注いだ古典的全作品を捨て去り、官能的美を選んでいる。いや、こう言った方がいいだろう。明るく幸福な笑顔で美の元へ戻るとき、初老の音楽家は美は理知の中ではなく、官能の中にあることを発見しているのだ。初老の音楽家がホテルに戻り鎧戸を開けると、明るく輝く砂浜が広がる。その広がりの中心には美が存在する。初老の音楽家はほとんど快活にその美に向かって挨拶を送る。

 ベニスの街は疫病によって死が支配している。その死が初老の音楽家を更に強く官能の輝きに向かわせるのだ。官能的美に憑かれた初老の音楽家は愚かで醜いが、同時に心を動かす。

 夏の輝きの中で官能的美に向かって全身全霊でさし出された腕は、だから心に残る。
 真夏の死をロング・ショットで突き放したように映し出して映画は終る。

1999/08/17