2016/02/29

夏の嵐


  • 1954年イタリア映画 8/30ル・シネマ
  • 監督:ルキノ・ヴィスコンティ
  • 出演:アリダ・ヴァリ


 恋の感情には法則がある。その法則を科学者の手付きで明らかにしながら、その法則に従って社会的な広がりの中でひとつの見事なロマンを創造したのは、スタンダールだった。
 この映画でルキノ・ヴィスコンティが成し遂げたこともまたそのようなことだった、と言えるだろう。

 恋に初な伯爵夫人と、恋に巧みで打算的な占領軍の青年将校。ヴィスコンティはそれら二人の人間を登場させることによって、恋をリアリスティックに描く。ここでは感情移入はあり得ない。伯爵夫人が恋の炎を燃え上がらせるとき、僕たちは伯爵夫人の愚かさをありありと見せられている。僕たちは主人公から一歩身を引き離し、その感情の動きをまさに観察する。僕たちが主人公に感情移入しようとすると、恋に目が眩んでしまっている主人公である伯爵夫人の愚かさがそれを跳ね返す。僕たちは映画が続いている間、伯爵夫人の恋の中に生きるのではなく、伯爵夫人の恋を観察するのだ。

 僕たちは恋する者ではなく、恋の観察者となる。その結果僕たちは恋が持つ圧倒的な力をまざまざと見せつけられるのだ。人になにもかも捨てさせる盲目的な力。その空恐ろしいような力は人を幸福にはけっして導きはしない。そのような力は人を破滅させずにはおかない。ヴィスコンティの冷酷とも言えるほど冷徹な描写から、その空恐ろしい力がくっきりと浮かび上がる。陰惨な戦場のシーンはまるごとその空恐ろしいような力のメタファーなのだと言ってもいいかもしれない。

 劇薬を扱うには冷静な科学者の手が必要だ。身を焼くような激しい感情を扱うのにヴィスコンティは冷静な科学者の手を選んでいる、別の言葉で表現するならば古典主義的描写を選んでいる。その結果この映画はギリシャ悲劇に限りなく接近するのだ。

 恋を見事にコントロールしていたように見えた打算的青年将校もついには恋の持つ暗い力の前に滅んでいく。たぶん青年将校は意識的に伯爵夫人を怒らせるのだ。
 ラスト、ヴィスコンティは闇だけを提示しない、暗い広場に残る白い光を提示する。最後にヴィスコンティは滅びる二人を、そして空恐ろしい力を讃歌すると書けば、それは僕だけの感じ方だ。

1999/08/30