2016/02/28

赤ひげ


  • 1965年東宝映画 11/10NFC
  • 監督/脚本:黒澤明
  • 撮影:中井朝一 音楽:佐藤勝
  • 出演:三船敏郎/加山雄三/二木てるみ


 スティーヴン・スピルヴァーグやジョージ・ルーカスそしてアルノー・デプレシャンたちのことを思った。みんな黒澤明監督の子供たちなのだ。

 もしこの映画をヒューマニズム賛歌の映画だと言う人がいたら、その人は根本的に間違っている、或いは、この映画の核に在るものを完全に見落としている。この映画の核にあるのはスケールの大きなエンターテインメント性だ。そのダイナミックなエンターテインメント性が観る者たちをグイグイと引っ張っていく。

 もっと言うならば、この映画はヒューマニズムを歌い上げているから、優れた映画なのではない。全く逆だ。芸術家たちが捕らわれてしまっているヒューマニズムを見事に乗り越えているから、優れた映画なのだ。
 説明が必要だろうか?もしこの映画がありふれた、それこそ掃いて捨てるほどあるヒューマニズム映画ならば、庶民たちを善意の害の無い人たちとして描くだろう。この映画はそうはしない。庶民たちは人間が抱えている闇も全て持った者として描かれている。僕たちがこの映画で出会う庶民たちは、善意の害の無い、要するに僕たちに都合のいい人間たちではない。僕たちは庶民たちの中でまさに人間に出会うのだ。もっとはっきりと言うならば、僕たち自身に出会うのだ。

 善意の人たちの善意の物語が出現しないのは、この映画の核にしっかりとエンターテインメント性があるからだ。エンターテインメント性がヒューマニズムを打ち砕く。ここでヒューマニズムという言葉で何を僕が指しているのか明らかにする必要があるだろう。ヒューマニズムとは命第一主義だ。もっと言えば一人の命の重みは全宇宙の重みに等しいという思想だ。日常の中にしっかりと根を下ろしている冷静に考えれば滑稽でしかない思想は、全てのものを死に絶えさせる。絶対的なものも命という尺度で、同じことだが人間という尺度で計られる。つまり絶対的なものさえも人間の下に置かれるのだ。人間の下に置かれた絶対的なものはもはや絶対的なものではない。

 絶対的なものという言葉を使えば、反撥を受けるかもしれないが、それでも絶対的なものがあってこそ、世界は意味的な存在となるのだ。

 この映画を観て青年医師がヒューマニストになる成長の映画だと解釈した人がいるならば、その人は自分の不明を恥じるべきだ。そうではないのだ。青年医師は俗悪なヒューマニストとして登場するが、絶対的なものに触れることによって、ヒューマニズムを乗り越えるのだ。そのような物語を語ったのがこの映画なのだ。

 エンターテインメント性とは僕にとって大きな謎の一つだが、この映画を観て謎の一部が見えてきた。エンターテインメント性はその生き生きとしたダイナミズムによってヒューマニズムを打ち砕き、無意味に転落している世界を救い出し、世界に輝きを与えるのだ。
 言葉はまだまだ足りないが、少し長くなってしまった。この議論はまた別の機会に展開しよう。ともかくこの映画を観て僕は世界の映画人たちが黒澤、黒澤と口にする理由が初めて本当に心から理解できたのだった。

1998/11/10