- 1952年東宝映画 7/19NFC
- 監督/脚本:黒澤明
- 撮影:中井朝一 美術:松山崇
- 出演:志村喬/田中春男/小田切みき
出だしは「知的」であり、「教条的」でもあって、身を引いてしまうが、次第に引き込まれていき最後の夕焼けのシーンには静かな感動をしみじみと感じる。
僕たちの生は常に死と隣り合わせだ。生の延長線上に死が存在するのではない。死とは突然現われるものなのだ。もっと言えば、死とは実体ではない、生が途絶えたとき、それを死と呼んでいるに過ぎない。死とは空虚な概念なのだ。先に進みすぎた、戻ろう。
この映画の主人公は当時不治の病であった胃癌に罹ることによって、生の背後には常に死があることを全身全霊で悟る。逆説的にも主人公は自分の生命が後1年しかないことを知ることによって、初めて生き始める。しかしそれは逆説でもなんでもないのであって、生が虚無の只中にあることを認識することによって初めて、生はその本来の姿を現すのだ。
生を知るということは、虚無と真正面から向かい合うことであり、その向かい合いの中で人は深い不安と絶望に陥る。大抵の人たちはその不安と絶望から目を逸らし、逃れようとするが、この映画の主人公は逃げずに戦う。その戦いが僕たちの心を動かすのだ。
でもいままで書いてきたことは映画表現においては、ただの戯言なのであってなんの意味もないことなのだ、そうこの映画を思い返すとき僕は感じてしまう。僕がいままで書いたことはハイデッガーを読めば済むことなのであって、わざわざ映画に登場してもらうことはない。大切なのは映画が進むに連れ、一人の凡庸な人間の生の在り方が僕たちの心の中に明確なイメージを作るということなのだ。そのイメージに僕たちの魂が束の間であっても共鳴する。それこそが重要なのだ。その共鳴音は美しいが、美しいだけにすぐに滅びてしまう。でも僕たちは確かにその音を聞いたのだ。その音の記憶があのラストの夏の夕焼け空なのだ、そう僕は思う。
2000/07/19