2016/02/28

ロゴパグ


  • 1963年イタリア映画 4/26ユーロスペース2
  • 監督:ロベルト・ロッセリーニ/ピエル・パオロ・パゾリーニ/ジャン=リュック・ゴダール/ウーゴ・グレゴレッティ

 この映画は四編の短編から成るオムニバス映画だ。
 四編の短編を上映順に紹介すると下記のようになる。

  1. ロベルト・ロッセリーニの『純潔』
  2. ピエル・パオロ・パゾリーニの『リコッタ』
  3. ジャン=リュック・ゴダールの『新世界』
  4. ウーゴ・グレゴレッティの『放し飼いの鶏』

 『ロゴパグ』という題名はロッセリーニ、ゴダール、パゾリーニ、グレゴレッティの頭文字をとっている。

 四編の内三編がコメディで、ゴダールのものだけが悲劇になっている。

 1. ロベルト・ロッセリーニ『純潔』


 ロッセリーニの『純潔』は新フロイト学派のアドラーの引用から始まる。「現代人は子宮を求めて彷徨っている」。
 東洋とヨーロッパを結ぶ飛行機、8mmのハンディ・カメラのマニアであるスチュワーデス、東洋にTVを販売してる冴えないアメリカのセールスマン、スチュワーデスの「小太りで少し間抜けな」恋人の友人である精神分析医という道具立てがあって、冴えないアメリカのセールスマンが母性的なスチュワーデスに恋することによって映画は動きだす。
 映画そのものよりも、ロッセリーニの視線に惹かれる。『純潔』はコメディだが、ロッセリーニの恋を見つめる視線は外科医のようにかなり冷酷だ。その冷酷さの中で「子宮を求めて彷徨っている」現代人の愚かさがコミカルにさらけ出される。

 2. ピエル・パオロ・パゾリーニ『リコッタ』


 パゾリーニの『リコッタ』はキリストのゴルゴダの丘での磔刑のシーンの撮影現場が映画になっている。パゾリーニは悪趣味と言える位キリストの受難を戯画化しているように見えるが、キリスト共に処刑される盗人の役をやる貧しい男を中心にこの映画を観るならば、パゾリーニがかなり真剣なことに気付かされる。このロケ隊から支給される食事を誤魔化して二人分もらおうとする位貧しい中年男もまた戯画化されているが、キリスト役の俳優との会話の中で、「俺は貧しく飢えたまま死ぬ運命なのだろうか?俺は天国なんてどうでもいい。この世で楽しく生きたい」と言う時、この映画のテーマがくっきりと浮き彫りにされる。
 この貧しい中年男が憑かれたように食べるのを、男程貧しくないロケ隊の人々が取り囲んで蔑みの笑いを浮かべながら眺めるシーンは圧巻だ。そこではこの映画のテーマが血肉を持ち鼓動を打っている。

 3. ジャン=リュック・ゴダール『新世界』


 ゴダールの『新世界』はパリに原爆が落とされた後の世界を主題にしている。ゴダールはけっして「異常な」世界をスクリーンに描きはしない。原爆の存在を忘れ去ったかのようなごく日常的な世界を見つめる。ゴダールは日常的世界に生きる人間の日常的な身体の動き、心の動きを追う。その追究の中でゴダールは原爆投下後の「新世界」を発見しようとしてる。ゴダールはゴダールなのだから、その「新世界」を親切に観る者に解説したりはしない。そもそも解説できるならば「新世界」をテーマにしたこの映画をゴダールはけっして撮らなかっただろう。ゴダールが映画にするのは徹底的に考え抜いてもなお見えないなにものかなのだ。僕たちはゴダールとともにその発見の作業をしなければならない。「新世界」が見えるかどうかはその僕たちの作業に関っている。

 4. グレゴレッティ『放し飼いの鶏』


 グレゴレッティの『放し飼いの鶏』は浅い映画の見方しかしない人はテーマ映画だと分類しそれで安心してしまうかもしれない。
 地鶏とブロイラーの違いを子供に説明する父親の言葉はブロイラーを管理社会の中で睡眠も食事も管理されながら自分たちを安全で清潔な世界に住んでいて幸せだと信じ込んでいる現代人のメタファーにする。実際父親が子供にブロイラーの説明する場所であるレストランのテーブルに座る人々はブロイラーと映像的に入れ替わり、ブロイラーがメタファーであることが明示される。でもグレゴレッティの『放し飼いの鶏』を魅力的にしているのは、そのようなテーマではなく、グレゴレッティの生き生きとした語り口なのだ。『放し飼いの鶏』にはグレゴレッティの創作者としての溌溂した精神を感じる。そこに僕は惹かれた。

1999/04/26