2016/02/28

ソドムの市


  • 1975年イタリア映画 5/10NFC
  • 監督/脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
  • 撮影:トリーノ・デッリ・コッリ 美術:ダンテ・フェルレッティ
  • 出演:パオロ・ボナチェッリ/ジョルジョ・カタルディ/ウベルト・パオロ・クィンタヴァッレ


 極限は美しいという言葉が掲げられるが、この映画にある極限は美しいどころか生理的嫌悪感を起こさせる。

 性は20世紀の芸術を考えるとき最大のテーマだが、パゾリーニはそのテーマに向かうとき、決して観念的なアプローチをしない。
 性が20世紀の芸術を考えるとき最大のテーマになっているのは、ジークムント・フロイトによって創始された精神分析学の影響が大きい。問題はフロイトが性を無意識も含めた意識の関数として捉えていることだ。精神分析学が最も普及したのはアメリカだが、そこでは精神分析学は通俗化され、異常な性の在り方は意識の歪みのせいだとされ、意識が健全になるとき、性も正常化されると理解されている。

 このような考えは性をとても窮屈なものにしていることはすぐに理解してもらえるだろう。性が窮屈で貧弱なものになってしまっていて、それが現代人の生から輝きを奪っている。
 そこで性を無意識も含めた意識に従属するものから開放することが、20世紀の芸術の最大のテーマになるのだ。

 話を戻すとこのテーマの追及においてパゾリーニはけっして観念的に立ち向かわない。言い方を変えるならば、性を解釈しようとしていない。性を生理的レヴェルで観察している。そしてその視線はかなりタフだ。どんなにおぞましく性が見えてもけっして目を逸らさない。英雄的だと言ってもいいほどだ。

 パゾリーニは性を追及するのにかなり厳格に映画を構成している。それはパゾリーニがこのテーマがかなり手強いテーマだということを理解していたからだろう。
 導入部はかなり端正が画面が中心になる。端正な画面を中心としながら、画面を斜めに横切る線で中盤からの無秩序を予感させている。映画が進み始めると、時折ロール・ショットが差し挟まれ、秩序の中から無秩序が確実に顔を見せ始める。
 中盤から後半にかけては、カメラは画面を構成しようとする意志は捨て去り、見ることに徹している。思わず目を背けそうになるのをじっと耐えながら、ひたすらに見つめている。
 終盤はカメラの構成しようとする意志を感じる。ロング・ショットが多用される。快楽殺人のリアリティーを高めるために、ロング・ショットを採用している面ももちろんあるだろうが、ここではカメラは見ることにもはや耐えられなくなっているのだ。だからカメラは遠くから見、見ることにかろうじて耐えるために画面を構成しようとする。形から見れば、構成的画面から始まり、構成的画面で終わる。
 パゾリーニは全体を見渡しながら、導入部、前半、中盤、後半、終盤の配分を考えている。配分を考えながら、ひたすら性を見つめているのだ。

 『ソドムの市』をスキャンダラスな映画だと評する人は性に関してまだ一度も真剣に考えたことがない人だろう。『ソドムの市』におけるパゾリーニの真摯さは尊敬に値する。

1999/05/10