2016/02/26

芝居道


  • 1944年日本映画 6/10NFC
  • 監督:成瀬巳喜男 脚本:八住利雄
  • 撮影:小倉金弥
  • 出演:古川緑波/山田五十鈴/長谷川一夫


 東京国立フィルムセンター「日本映画の発見」特集。

 古川緑波、山田五十鈴、長谷川一夫と名前が並ぶと、マキノ雅広の「婦系圖」1942のことを思う人がいるかもしれない。三人ともマキノ雅広とは関係の深かった人たちだ。この映画で古川緑波は重厚で味のある演技をして映画を引き締めているが、そんな役が古川緑波に与えられるようになったのは、マキノ雅広が「婦系圖」において周りの大反対を押しきって声帯模写あがりの古川緑波に的確な演技力の要求される酒井先生の役を与えたからこそだろう。長谷川一夫が陸軍に招集された時、前線にやられずに内地勤務ですむように骨折ったのはマキノ雅広だ。ベルさんがマキノ雅広を師匠と仰ぎ、マキノ雅広が失意の時、声を嗄らしてマキノ雅広を応援したのは日本映画を愛する人なら誰でも知っていることだろう。

 ベルさんはやっぱり素敵だ。立ち居振る舞いがとても美しい。歩くときなんか惚れ惚れとしてしまう。ベルさんの父親は山田九州男という関西新派の女形だったが、ベルさんがあるのは母親の存在が大きかったようだ。ベルさんの演技が不味いと母親は容赦なく物差しでベルさんを叩いた。いまの人たちはそのような母親の行為を野蛮の一言で片付けるだろうが、その「野蛮な」行為を通して母親の芸に対する思いがベルさんに伝わったことは誰も否定できないことだろう。いまはあんな見事な立ち方、座り方、歩き方のできる人はどこを探してもいなくなってしまった。

 映画自体は気持ち良く泣ける爽やかで見事な娯楽作品だ。軍国主義の国家権力に阿るように見えて、じっくり観ると成瀬の反骨精神が仄かに漂って来るのも気持ちいい。反骨精神というよりも反時代的精神と言った方がいいかもしれない。演技は断然古川緑波が光っている。ここまで演じることのできる人だとは知らなかった。ベルさんの演技までかすんで見える。

 画面構成とカットの組み合わせに感心した。
 登場人物たちは立っているか、座っているかで、動きはほとんどない。殴り合うことはないし、言い合うこともほとんどない。漫然と撮影したら、単調で退屈な「画」になってしまうだろう。画が単調に陥ってしまうのをカットの組み合わせと画面構成で救っている。
 二人の男が畳に座って話している。カメラはロングで障子窓の外から二人を捉える。次にカメラは部屋の中に入って、ミドルで一方の男を捉える。しばらくして切り返してミドルのもう一方の男。カメラは隣りの部屋に入り、障子窓を奥に置いて二人の男を捉える。最初のロングとは反対からの映像になっている。それから一方の男のクロース。もう一方の男のクロース。要するに様々なカットを組み合わせることによって画面にダイナミックさを与えているのだ。
 画面構成は終始奥行を強調したものになっている。それが画が平板になることを救っている。

 でも一番感心するのは俯瞰やあおりの映像がほとんどないことだ。カメラは常に対象に正対している。そこに静的な美しさが生まれる。それこそが成瀬の美学だろう。

1997/06/10