2016/02/26

あにいもうと

  • 1953年大映映画 4/16NFC
  • 監督:成瀬巳喜男 脚本:水木洋子
  • 撮影:峰重義 美術:仲美喜雄
  • 出演:京マチ子/森雅之/久我美子

 常に奥行きを意識した画面構成、白と黒とのコントラストのくっきりした画像。それら二つのものは成瀬巳喜男監督の心そのものように僕には感じられた。

 光と闇がそれぞれの存在を主張し、せめぎ合う。そのせめぎ合いの中で感情に火が付けられ炎を上げる。炎の勢いは凄まじい。その凄まじさを奥行きの深い画面がしっかりと支えている。

 ここにあるものを兄と妹との禁じられた愛なのだとするならば、それはこの映画の持っている広がりを完全に見落としている。この映画の主人公は兄と妹でなく、川なのだ。

 川によって栄えた男が、時代の流れの中で落ちぶれ、妻が営む店によって養われている。彼の娘が帰ってくる。夏の盛り。彼女は庭の井戸水で身体を拭く。彼女は戸を開け放たれた風の通る家の中で健康な眠りを眠る。ここにあるのは神話の世界の満ち足りた世界だ。彼女は女神の輝きを放っている。
 彼女の放つ輝きは男が栄えた時代を象徴しているのだろう。その時代が過去のものであることを証明するように、男の息子、つまり彼女の兄が戻ってきて、彼女が妊娠し捨てられた女であることを観客の前に暴露する。彼女はさんざん辱められ、憐れな女に成り下がり、涙を流す。その涙は男の零落そのものなのだ。

 川とは時の流れなのだ、とするならばこの映画は時の流れの中で変わっていくことの悲しみを描いているのだとすることができるだろう。もっと端的に言えば死に向かって生きていることの悲しみがこの映画のテーマなのだ。

 兄と妹との凄まじい殴り合いの喧嘩は死に対する命をぎりぎりに燃やした抵抗のように僕には感じられた。その喧嘩の中で兄と妹は自分たちが全く同じ種類の人間であることを明らかにする。死を運命としてけっして受け入れることのできない人間たち。

 随分突飛に聞えるし、なにを愚かなと嘲笑されるかもしれないが、僕はこの映画をヒーローとヒロインの映画だと感じる。この映画は神々について語った映画なのだ。人間たちがあらゆることを、そして死さえも従容と受け入れる中で、この二神は死に向かって雄々しく立ち向かう。荒ぶる二神。この映画は神話なのだ。だからその神話の世界を支えるために奥行きを意識した画面構成と白と黒とのコントラストのくっきりした画像を必要とするのだ。
 逆に言えば、それら二つがあってこそ荒ぶる神々は存在できる。それら二つが成瀬巳喜男監督の心であると冒頭で言ったのはそういう意味だ。

 ラスト・シーンは祝福に満ちている。陽光に包まれながら道を歩く姉妹の後姿。その道は川から遠ざかって行く。

1999/04/16