- 1998年台湾映画 10/21東劇
- 監督:ホウ・シャオシェン
- 出演:トニー・レオン/羽田美智子/カリーナ・ラウ
幕が開くように、闇が次第に明るくなる。ランプの中の小さな炎が光を放ち闇を防いでいる。その炎に明らめられた空間の中で男たちがジャンケン酒飲に優雅に興じている。負けた方の男の盃を華やかな女たちが代わりに飲み干す。若い男は得だなあという声が流れる。カメラはゆったりと構えその光景を写し取る。カメラはゆったりと動き、いくつかのランプの光で優雅に照らされた空間をレンズに捉えていく。洗練された男たちと華やかな女たち。そこに流れている時間はとても豊かなものだ。その豊かな時間を慈しむように、ショットは持続する。
ワン・シーン、ワン・ショットはホウ・シャオシェンのトレード・マークのようなものだが、ここではそれは一つの技法としてあるのではない。十九世紀の上海という美女の中で流れていた豊かで優雅な時間が必然的にショットを持続させるのだ。
ショットとショットは溶暗で繋がれる。その結果この映画は多幕劇のようにも見えるが、溶暗はこの場合シーンとシーンを区切るものとしては機能していない。むしろ溶暗によって時間が繋がっていっている。この映画において溶暗はピリオドではなく、ハイフンなのだ。持続するショットは溶暗によって結びつけられ、十九世紀の上海だけが持ち得た魅力的な時間の流れを現出させる。
僕たちはその優雅な時間の流れに身を委ねればいい。その時、僕たちは十九世紀の上海という美女に抱かれている。
この映画の女たちは時代そのものとして在る。女たちはどんなに華やかな外見をしていようとも、子供の時親たちから売られ、身を売って生きている存在なのだ。ホウ・シャオシェンの目はある意味ではとても残酷だ。とりわけ気位の高い女が大切な契約書を文字を知らないがために読めないことを露に示す。その暴露の中で女たちの出自が明らかになる。それでも女たちは花のように美しい。女たちが時代そのものとして在るとはそんな意味だ。欲望を糧にして咲く花たち。
この映画の「ドラマ」は、例えば一人の女が恋に狂って相手に毒盃を飲ませることにあるのではない。「ドラマ」は阿片を雅なパイプに詰める、ゆったりとした動作にある。だから映画は闇に溶け込むようにして静かにひっそりと終わるのだ。
1998/10/21