- 1959年アメリカ映画 2/8NFC
- 監督:ハワード・ホークス 脚本:ジュールズ・ファースマン
- 撮影:ラッセル・ハーラン 音楽:ディミトリ・ティオムキン
- 出演:ジョン・ウェイン/リッキー・ネルソン/アンジー・ディッキンソン
オープニング・ロールが終わると、苦しみから逃れるために酒に溺れ誇りを無くした男がクロース・アップされる。このクロース・アップはこの映画が再生の物語を語った映画であることを予示している。ジョン・ウェイン演じる保安官がこの男が手を伸ばそうとする硬貨の投げ入れられた酒場の痰壺を蹴り飛ばすとき、主題は明確になる。その主題に男の友情という名前を付ければ、それは間違っている。ここにあるのはもっと厳しいものだ。
『リオ・ブラボー』は、町の背景となる、清々しい白い雲を刷いた青空が印象的だが、その青空のように爽やかだ。誰も、女性も含めて、守られようとはしない。誰もが誰かを或いは何かを守ろうとしている。そして、たとえそれがポーカーによる収入であるにしても、誰もが自活している。『リオ・ブラボー』という映画を支えているのは、強烈な自立の精神なのだ。
その強烈な自立の精神は負に働けば、自分の力しか信じない人間を作り上げる。ジョン・ウェイン演じる保安官は悪党の一団を相手にせざるを得ない状況に追い込まれても、誰の助けも借りようとしない。彼の言葉を借りれば応援をもらっても「素人の死体を増やすだけだ」。彼はこの映画の登場人物の中で最もバランスのとれた人間だが、強烈な自立の精神が彼の視野を狭くしている。彼は助けがなければ殺されるだけだということを認識していない。実際彼は助けが無ければ殺されていた。いやこう言った方が、真相に近いだろう。彼は助けを借りて自立の精神を失うくらいなら、死ぬことの方を選ぶ人間なのだ。
その「誇り高い」人間が、人に守られることを知る映画なのだ、と僕はこの優れた映画に対して言いたい、というかそう僕は感じる。彼の恋はその隠喩として働いている。ここで試されているのはアメリカ精神なのだ。手垢にまみれた言葉を使うならば、タフな精神は優しくあり得るか、それが試されている。そしてハワード・ホークスは肯定的な結論を出している。それならばこの映画は最良の意味でのアメリカ精神賛歌の映画なのだ。
2000/02/08