2016/02/16

港々に女あり


  • 1928年アメリカ映画 2/29NFC
  • 監督:ハワード・ホークス 脚本:シートン・I・ミラー
  • 撮影:L・ウィリアム・オコネル 美術:ウィリアム・S・ダーリング
  • 出演:ヴィクター・マクラグレン/ロバート・アームストロング/ルイーズ・ブルックス


 船乗り、港、女、喧嘩、友情。
 詩情を作り出す紋切型の要素。ハワード・ホークスは「女」と「友情」を対立させることによってドラマを作り出し、「女」によって「友情」を輝かせている。観ていて楽しく気持ちのいい映画なのだが、僕は同時に警戒心も抱く。

 確かにホークスは「偉大な」監督なのだろうが、僕がこれまで観てきた彼の映画から判断するならば、その「偉大さ」はあくまでもハリウッドという厳然たる制限が付く。彼はハリウッドという世界の地平線の向こうに視線を向けることは決してない。彼にとってハリウッド=世界なのだ。彼はハリウッドという世界以外に世界があることを想像したこともないに違いない。

 主人公である船乗りの二人は世間一般の標準で言うならばならず者なのだが、ならず者が主人公であることは、この二人組が見知らぬ船乗りの幼い子供を抱えた未亡人に同情し彼女に金を与えることで巧みにエクスキューズされる。また彼らは無法にも警官たちを相手に戦うのだが、その警官たちがアメリカの警官でなく、外国の警官であることによって、その無法さは微笑ましいものに擦り返られている。

 そんなふうに考えていくとき、この映画はかなりの胡散臭さを発散し始める。この映画ではかなり身勝手なアメリカ文化の本質が暴露されていると言い換えてもいい。二人組の一人は友情のために自己犠牲的と言ってもいい努力を払うが、その「純粋さ」の中では女性もまた人間であることは完全に忘れ去られている。その「純粋さ」の中では女性はあくまでも男性に従属するものなのだ。

 娯楽は無益である代わりに、無害なものであって、それに対してなんやかや難癖をつけるのは野暮だという考えが僕にはあったが、ハワード・ホークスの映画を彼の特集で観続けてきて、その考えは変わりつつある。
 結論を出すにはもっともっと考えなければならないが、娯楽はたぶん既存の体制的価値観に媚びるものなのだ。

2000/02/29