2016/02/28

天国と地獄


  • 1963年東宝映画 11/13NFC
  • 監督/脚本:黒澤明
  • 撮影:中井朝一 音楽:佐藤勝
  • 出演:三船敏郎/山崎努/仲代達矢


 印象的な音と共に映画は始まる。その音は港が立てるノイズだ。ロマンの対象としての港ではなく、経済の要として活動し雑多な人々を集めている港。その港が立てるノイズと共に映画は始まる。僕たちはそのノイズに耳を澄ませなければならない。

 映画は初めモラルを中心に進む。モラルがドラマを生み、映画をドライヴする。だからといって、この映画をモラルについての映画だと判断するならば、それは間違っている。
 この映画のテーマはモラルなのだと解釈する人は、この映画を人命のために自分の全財産と地位を投げ出すヒューマニストと簡単に人を殺してしまうアンチ・ヒューマニストとの対立の映画なのだと言うだろうが、それではこの映画を完全に見誤ってしまっている。
 僕たちは、港が立てるノイズに耳を澄ますべきなのだ。結論的に言うならば、そのノイズは港に集まった雑多な人々のルサンチマンの叫びなのだ。この映画が扱っているテーマは、ニーチェ的テーマなのだ。

 港のノイズに耳を澄ませ続けながら、映画を観るならば、この映画が強者と弱者についての映画だということが分かるだろう。映画のラスト、シャッターが下りて両者はこちら側と向こう側に決定的に分断される。僕たちはこちら側の人間なのだろうか、それとも向こう側の人間なのだろうか?港のノイズにその答は在る。僕たちは向こう側の人間なのだ。

 そのことを理解したとき、この映画の主人公が明らかになる。この映画は弱者の強者に対する恋の歌なのだとロマンチックに言ってもいいかもしれない。その恋は初めから不可能を予告されている。最後の時、弱者は強者を呼ぶが、残酷にも強者は弱者を理解できない。両者の間に下ろされるシャッターが両者の間の決定的な溝を象徴する。強者の目には憐れみしかない。その目には理解はない。弱者にできるのは、ルサンチマンを全身で表現することだけだ。繰り返しになるがそれが惹き起こすのは憐れみの感情だけだ。

 世界と真っ向から向かい合って生きることができる人間と、ルサンチマンの中で生きるしかない人間。後者は前者に怨念を抱くが、その怨念の背後には憧れがある。弱者は強者を否定しながら肯定する。その肯定はすぐに否定へと戻る。なぜならば、強者と弱者は決定的に違う者だからだ。肯定はその決定的な相違によって押し返される。僕たちが強者を前にしてできるのは、たとえそれが憐れみしか誘わないことが分かっていても、全身を震わせることだけなのだ。

 弱者はどこへも行けない。僕たちは、いや僕と言い換えよう、僕はそのことを思い知り、映画が終わってもしばらく席を立つことができない。

1998/11/13