- 1994年フランス映画
- 監督:クシシュトフ・キェシロフスキ
- 撮影:ピョートル・ソボチンスキー
- 主演:イレーヌ・ジャコブ/ジャン=ルイ・トライティニャン
僕が見たときは、他の観客の人も笑っていました。やっぱりあの人が一番笑いを取っていました。
「白の愛」は、いま一つだったので、どうかなと思って見に行ったのですが、本当にいい映画でした。最初から最後まで引き込まれました。心が暖かくなる映画です。
思い付くままに挙げると、本の表紙、自動車、広告写真の背景、血に汚れた指先、犬の繋ぎ紐、等でしょうか。あ、もちろん、イレーヌ・ジャコブのTシャツもありますね。それにボーリング場のシーンもあるし。自然な感じで、画面に配置されている所に、クシシュトフ・キェシロフスキ監督のセンスを感じました。
キェシロフスキは、やっぱりイメージが鮮烈です。ボーリング場の割れたグラス。石によって破壊される窓ガラス。握りつぶされるプラスチックのコップ。破壊されるガラスというイメージは、キェシロフスキ監督にとって、とても大切なイメージのようです。そう言えば、ジャン=ルイ・トランティニャンが「真実」を知るのは鏡によってでしたが、その「真実」を映し出した鏡にも、「真実」を映し出したそのことによって破壊のイメージが伴います。
あと、光り。建物に差し込んで、すぐに建物の影に隠れる太陽。山の際から差し込んですぐに山の後ろに隠れる太陽。それらのイメージは、点いたと思ったらすぐに消えてしまうランプの伏線になっています。上手いなあと思いました。伏線と言えば、風もそうですね。トランティニャンの庭の木立の枯れ葉を揺らす風は、後半の嵐の伏線になっています。一つ一つのイメージが関連し合いながら、映画は進んでいきます。これは、気持のいいリズムを生んでいました。
イレーヌ・ジャコブももちろん素敵でしたが、ぼくは、トランティニャンが印象に残りました。ジャコブから、「いっそ、息でも止めたら。」と言われる虚無的な彼ですが、その奥には深い優しさが感じられて感動しました。
最後に、彼の分身とも言うべき若い法学生は、ジャコブと出会います。その時、彼は人を愛する力を取り戻します。
僕は、「男と女」でパリの駅で愛を取り戻す彼が、オーバーラップして見えました。
1994/11/14
「白の愛」は、いま一つだったので、どうかなと思って見に行ったのですが、本当にいい映画でした。最初から最後まで引き込まれました。心が暖かくなる映画です。
思い付くままに挙げると、本の表紙、自動車、広告写真の背景、血に汚れた指先、犬の繋ぎ紐、等でしょうか。あ、もちろん、イレーヌ・ジャコブのTシャツもありますね。それにボーリング場のシーンもあるし。自然な感じで、画面に配置されている所に、クシシュトフ・キェシロフスキ監督のセンスを感じました。
キェシロフスキは、やっぱりイメージが鮮烈です。ボーリング場の割れたグラス。石によって破壊される窓ガラス。握りつぶされるプラスチックのコップ。破壊されるガラスというイメージは、キェシロフスキ監督にとって、とても大切なイメージのようです。そう言えば、ジャン=ルイ・トランティニャンが「真実」を知るのは鏡によってでしたが、その「真実」を映し出した鏡にも、「真実」を映し出したそのことによって破壊のイメージが伴います。
あと、光り。建物に差し込んで、すぐに建物の影に隠れる太陽。山の際から差し込んですぐに山の後ろに隠れる太陽。それらのイメージは、点いたと思ったらすぐに消えてしまうランプの伏線になっています。上手いなあと思いました。伏線と言えば、風もそうですね。トランティニャンの庭の木立の枯れ葉を揺らす風は、後半の嵐の伏線になっています。一つ一つのイメージが関連し合いながら、映画は進んでいきます。これは、気持のいいリズムを生んでいました。
イレーヌ・ジャコブももちろん素敵でしたが、ぼくは、トランティニャンが印象に残りました。ジャコブから、「いっそ、息でも止めたら。」と言われる虚無的な彼ですが、その奥には深い優しさが感じられて感動しました。
最後に、彼の分身とも言うべき若い法学生は、ジャコブと出会います。その時、彼は人を愛する力を取り戻します。
僕は、「男と女」でパリの駅で愛を取り戻す彼が、オーバーラップして見えました。
1994/11/14