2016/02/28

大きな鳥と小さな鳥


  • 1965年イタリア映画 4/27ユーロスペース2
  • 監督/脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
  • 撮影:トニーノ・デッリ・コッリ 音楽:エンニオ・モリコーネ
  • 出演:トト/ニネット・ダヴォリ/フェミ・ベヌッシ


 タイトル・ロールが楽しい。
 身体が弾むような音楽に乗ったメール・ヴォーカルがクレジットを歌詞にして歌う。思わずニコニコしてしまう。ちなみに紹介すると、タイトル・バックは雲に半分覆われた月だ。

 音楽の使い方に冴えを見せる監督はパゾリーニばかりでないが、パゾリーニの音楽の使い方は端的に言って楽しい。タイトル・ロールだけでなく、映画の中の音楽にニコニコしてしまう。音楽の使い方からパゾリーニを判断すると、パゾリーニは感傷という言葉から最も遠いところにいる人だ。パゾリーニは知的に音楽を使う。うーん、そう書いてしまうと、ちょっと違う。パゾリーニはお茶目に音楽を使う。うん、これがピッタリだ。

 『大きな鳥と小さな鳥』にはとても心を動かされた。それはこの映画のテーマとはまったく無関係にだ。つまり僕は映画そのものの在り方に心を動かされたのだ。
 『大きな鳥と小さな鳥』で映画はとても自由だ。映画ってこんなにも自由なものであってよかったんだ、そのことを僕は発見し、感動したのだ。そしてその自由を支えているのはパゾリーニの溌溂とした批判精神なのだ。いや、これでは僕の感じにピッタリしない。そしてその自由を支えているのはパゾリーニのお茶目な批判精神なのだ。うん、これなら僕の感じにピッタリだ。

 まとめるならばパゾリーニは『大きな鳥と小さな鳥』において、音楽に対しても、映画に対する態度においても、お茶目だ。そこが『大きな鳥と小さな鳥』の大きな魅力になっている。

 親子が道路を歩いている。そこにカラスが加わる。カラスは親子にどこに行くのかと尋ねる。親子は「あっち」と言うだけだ。カラスは色々と推測するが、全部外れる。カラスは降参して改めて親子に尋ねる。「どこへ向かっているのか?」。「あっち」。
 インテリであるカラスは全てのことには目的があると信じているが、親子は目的なく歩いている。両者はそこにおいて決定的に違っている。親子はやがてカラスをうっとおしく感じ始めるが、それが親子がカラスを食べてしまう理由ではない。親子は理想主義者であるカラスに対してリアリストであるだけなのだ。親子はルナという名前の娼婦と時間を過ごし、お腹を空かせた。だからカラスを食べる。それ以上の意味はない。
 親子を民衆だとしてしまえば、理に落ちてしまうが、そうすればこの映画の構図が見えてくるのも確かだ。

 でもそんな構図はまったく重要ではない。重要なのは批判精神が自由に生き生きと息づいているということなのだ。その精神の溌剌さが『大きな鳥と小さな鳥』をとても魅力的な映画にしている。

 僕はパゾリーニのお茶目さが生んだとしか言いようがないカラスが語る宗教話が大好きだ。
 舞台は十二世紀のイタリア。ある修道士が小鳥たちにも布教するように命じられる。随分宗教を馬鹿にした設定だが、その生き生きとした語り口で語られる話を観ていると確実に聖なるものが姿を見せる瞬間がある。
 パゾリーニはけっして教条的に宗教を否定しない。宗教というものが持っている生命をしっかり見て取っている。

 パゾリーニと宗教に関しては『奇跡の丘』を観てから改めて述べたい。いまはパゾリーニの持つ生命力に満ちた精神は、パゾリーニを教条主義者から最も遠い存在にしていると記すに止めてこの文章を終わろう。

1999/04/27