- 1995年アメリカ・ドイツ・日本映画 3/3恵比寿ガーデンシネマ1
- 監督/脚本:ハル・ハートリー
- 撮影:マイケル・スピラー
- 出演:ビル・セイジ/ドワイト・ユーウェル/二階堂美穂
楽しみにしていた映画だが、僕からは遠い映画だった。
同じ脚本を使ってニューヨーク、ベルリン、東京という三つの異なった都市で撮られた三つの物語から成る映画。
ベルリン篇で建設労働者たちが監督の試みは失敗に終わるだろうとドイツ語で語り合う。
ハル・ハートリーはインタヴューで物語を内容とその解釈に分けた上で、同じ脚本を使ったことで解釈に集中できたと語っている。
撮る立場からは確かにそうなのかもしれない。
しかし観る立場からは同じ脚本が使われたことによって逆に内容が映画の中心に居座ってしまったように思える。
ハル・ハートリーは内容と解釈という言葉を使ったが、それら二つの言葉を物語と登場人物という言葉に置き換えるならば、登場人物が物語に完全に従属してしまったように見える。
同じ物語が三回繰返し語られることで、ハル・ハートリーの言うように物語はけっして映画の背後に隠れることはない、むしろ反対に観るものの興味の中心になってしまう。
その結果登場人物は、観るものの立場からは、物語に奉仕するだけの存在になってしまう。
さらに言うならばハル・ハートリーはある意味でパターン化された反復を方法として採用することによって時間を無化してしまっている。
時間がその唯一無二性を奪われている。
同じ物語を繰返すことによって、ハル・ハートリーは時間をフラートしてしまっている(もてあそんでしまっている)。
ハル・ハートリーは物語を伝えることが自分にとって一番大切なことだと語っているが、時間はけっして物語の構成要素ではなく、物語そのものなのである。
この映画では時間が単なる映画の構成要素となり、けっきょくは物語を形骸化している。
登場人物にも物語にも魅力の無いこの映画を観ながら、松田美由紀がハル・ハートリーの映画から下りたのは実に正しい選択だったと思った。
でも冬の光に包まれたニューヨークは素敵だった。
それだけで僕は満足だ。
1997/03/03