2016/04/03

フラート


  • 1995年アメリカ・ドイツ・日本映画 3/3恵比寿ガーデンシネマ1
  • 監督/脚本:ハル・ハートリー
  • 撮影:マイケル・スピラー
  • 出演:ビル・セイジ/ドワイト・ユーウェル/二階堂美穂


 楽しみにしていた映画だが、僕からは遠い映画だった。

 同じ脚本を使ってニューヨーク、ベルリン、東京という三つの異なった都市で撮られた三つの物語から成る映画。
 ベルリン篇で建設労働者たちが監督の試みは失敗に終わるだろうとドイツ語で語り合う。

 ハル・ハートリーはインタヴューで物語を内容とその解釈に分けた上で、同じ脚本を使ったことで解釈に集中できたと語っている。
 撮る立場からは確かにそうなのかもしれない。

 しかし観る立場からは同じ脚本が使われたことによって逆に内容が映画の中心に居座ってしまったように思える。

 ハル・ハートリーは内容と解釈という言葉を使ったが、それら二つの言葉を物語と登場人物という言葉に置き換えるならば、登場人物が物語に完全に従属してしまったように見える。

 同じ物語が三回繰返し語られることで、ハル・ハートリーの言うように物語はけっして映画の背後に隠れることはない、むしろ反対に観るものの興味の中心になってしまう。
 その結果登場人物は、観るものの立場からは、物語に奉仕するだけの存在になってしまう。

 さらに言うならばハル・ハートリーはある意味でパターン化された反復を方法として採用することによって時間を無化してしまっている。
 時間がその唯一無二性を奪われている。

 同じ物語を繰返すことによって、ハル・ハートリーは時間をフラートしてしまっている(もてあそんでしまっている)。

 ハル・ハートリーは物語を伝えることが自分にとって一番大切なことだと語っているが、時間はけっして物語の構成要素ではなく、物語そのものなのである。
 この映画では時間が単なる映画の構成要素となり、けっきょくは物語を形骸化している。

 登場人物にも物語にも魅力の無いこの映画を観ながら、松田美由紀がハル・ハートリーの映画から下りたのは実に正しい選択だったと思った。

 でも冬の光に包まれたニューヨークは素敵だった。
 それだけで僕は満足だ。

1997/03/03

愛・アマチュア


  • 1994年アメリカ映画
  • 監督/脚本:ハル・ハートリー
  • 撮影:マイケル・スピラー
  • 主演:イザベル・ユペール/マーティン・ドノバン/エレナ・レーベンソン


 主人公のイザベル・ユペールは、尼院を飛び出した尼僧です。
 最後には、尼院に戻ります。
 この映画は、尼僧ユペールの「厳しい」外界での試練の映画だと見ることができると思います。

 ユペールは最後まで、処女のままです。
 最後の、尼院の場面では、ユペールは、幼子イエスを抱いた聖母マリアの絵をバックに撮られます。
 「あなたは、この人を知っているのですか?」という問い掛けに、はっきりと「知っています。」と答える、マーティン・ドノバンを抱いたユペールには、聖母マリアのイメージが重なります。

 この答えは、とりわけ印象的です。
 何度も作中で、'I don't know.'と答えるユペールですが、ここだけでは、悲しみの涙を流しながら、はっきりと「知っています。」と答えるのです。
 そこには、忌まわしい過去を持つドノバンをその過去のまま愛そうとするユペールの意志があります。
 もっと一般化するならば、人間をその邪悪な面も含めて、愛していこうとするユペールの決意があります。

 そして、ラスト・シーンには、ハル・ハートリー監督の道徳的潔癖さが現われています。

 悪を犯したものは、その責任を取らなければならない。

 この映画は、ハル・ハートリー監督が彼の宗教面、道徳面を見せた映画だと思います。
 そして、この映画は、アマチュアの尼僧ユペールが本物の尼僧になる成長の物語だと思います。

 背中を見せて、ドノバンがユペールに'I'm sorry.'と言うシーンが心に残りました。

1994/12/23

2016/03/30

狙われた男


  • 1956年日活 3/6東京国立フィルムセンター
  • 監督:中平康 脚本:新藤兼人
  • 撮影:中尾駿一郎
  • 主演:牧眞介/天路圭子/南寿美子


 東京国立フィルムセンターの「1950年代の青空と太陽」特集に行ってきました。
 日本映画に清新な風を吹かせた大映の増村保造と日活の中平康監督の特集です。

 きょう観たのは中平康監督の1956年の作品で、彼の初監督作品です。

 画面一杯に広がる目。
 その目がさらに拡大され、画面は黒色になりその黒色を通り抜けるようにしてビルの屋上から捉えた東京の街並みのショットに切り換わる。

 カメラはパンして銀座四丁目の服部ビルを捉え、やがて七丁目辺りの路地裏で止まる。
 路地裏がズームインされる。

 その路地裏のクレーンショットが続く。

 カメラが上から下に移動する。娘が明るく鼻歌を歌いながら美容院に入っていく。
 悲鳴。
 渦巻が回転する美容院の看板のクローズアップ。

 冒頭から才気が迸るような映画話法でなるほどなあと思いました。
 フランスのヌーヴェル・ヴァーグの作家たちが注目したのも首肯けます。

 あと印象的だったのはビルとビルの狭く暗い路地での乱闘です。
 闇の中で男たちが暴力をふるっている。流れるのはモダンジャズ。かっこいいなあと思いました。
 ドラムを叩いているのがフランキー堺でシンプルで安定したドラムを聴かせてくれます。

 刑事役が内藤武敏で当り前ですが本当に若々しい。彼は端正な顔立ちでクールな刑事役にぴったりでした。

 銀座にはあの頃川が流れていたんだというのも、なんだか感激しました。あの頃川が流れていたのは一丁目と八丁目辺りですね。

 最後は冒頭と同じショットです。

 路地裏。娘が明るく鼻歌を歌いながら美容院に入っていく。
 悲鳴。渦巻が回転する美容院の看板のクローズアップ。

 でも今度は死体は飛びださず、痴話喧嘩が飛びだし、映画は明るく終わるのでした。

1996/03/06

殺したのは誰だ


  • 1957年日活 3/9東京国立フィルムセンター
  • 監督:中平康 脚本:新藤兼人
  • 撮影:姫田真佐久
  • 主演:菅井一郎/西村晃/山根寿子


 きょうも東京国立フィルムセンター「1950年代の青空(増村保造)と太陽(中平康)」特集に行ってきました。
 2階の大ホールへ昇る階段の壁には大好きな大河内伝次郎のスチール写真が掛けてあって、毎回見惚れています。

 この作品は中平監督の1957年の作品です。

 主演が菅井一郎です。
 小津安二郎の「麦秋」では枯れてすがすがしい美しさを見せる人物を演じている菅井がここでは欲望に振り回される生々しい人物を演じていてなぜかどっきりしました。

 息子役が小林旭。
 これは全然知らなかったので、わあーと思ってしまいました。ビリヤードでキューを構えるときの目は野獣のようで思わずドキリ。

 銀座の並木通りにあるレストランの窓ガラス越しに並木座が映り、嬉しくなりました。
 映画の中の並木座はちょっとお洒落な映画館といった感じでした。いまの並木座は渋いという言葉がぴったりですね。
 場末ではあの頃も女性が往来を上半身裸で歩いていたということも驚きでした。

 日活のロゴが映し出されると同時に車のエンジンの音。
 ギアレバーと手のクローズアップ。
 アクセルを踏み込んでいる靴のクローズアップ。
 スピードメーターのクローズアップ。
 カーラジオのクローズアップ。
 スイッチが入れられる。テーマ音楽が始まる。

 冒頭から中平監督の清新な感覚が飛び散ります。

 最後は列車の窓の中の紀伊の美しい海。
 トンネルに入り、窓は黒一色になる。そこに「殺したのは誰だ」とタイトルが入る。そして映画は終わる。
 この辺の感覚は本当に若々しいと思います。

 カットの構成がとても考えられていて、感心します。
 賭けビリヤードのシーンなんかは編集(モンタージュ)によって非常に緊迫感の高いものになっています。

 菅井が自動車をぶつけようとするシーンを例に取ると、

 鉄道の高架線の下の向こうに小さく見える障害物。
 それを自動車の窓から首を出して不安そうに眺める菅井の顔。
 アクセルを踏む菅井の足のクローズアップ。
 排気管から出る白い煙。
 猛スピードで走る車を正面から捉えたカット。
 迫ってくる障害物。

 なんでもないシーンでもカット構成に注意しながら見ると、その緻密さに驚かされます。

 僕の知らない監督で優れた監督はいくらでもいるんだなあと思ったことでした。

1996/03/09

2016/03/28

緑色の部屋


  • 1978年フランス映画 12/11NFC
  • 監督/脚本:フランソワ・トリュフォー
  • 撮影:ネストール・アルメンドロス 音楽:モーリス・ジョベール
  • 出演:フランソワ・トリュフォー/ナタリー・バイ/ジャン・ダステ


 人は心の底から感動したときには言葉を失う。
 だからここには言葉はない。

 そんなふうに書くのが最も正しい。
 しかし言葉を書き連ねる他はないのでそうしよう。

 自分の妻の死から逃れることのできない一人の中年男。
 地方のほとんど過去のものとして忘れ去られようとしている雑誌の記者として在ることに満足し、他人に対する寛容を欠いた中年男。

 そんな人間が身近にいれば、僕は付合いにくい変わり者として避けるだろう。ましてやその内面に入り込み理解するということを行うことなど夢にも思わないだろう。

 ここに『緑色の部屋』という映画があって、その夢にも思わないことを僕にさせる。

 死者に向いて生きる男の真摯さに僕は触れる。聖拝堂を自費で再建しそこに自分と関わっていった死者たちの写真を祀る男は外から眺めるならば狂っているとしか思えないが、一度その内面に入り込めば、その切なさに共感する。

 男は生きて苦しみ楽しんでいた人間たちが死によって忘れ去られてしまうのが、許せないのだ。
 その忘却は男が生きて苦しみ楽しんでいる、その苦しみ、喜びを否定してしまうだろう。
 男は自分自身の生を救うためにせめて自分だけでも、死者たちを心の中に生きさせようとするのだ。

 男が最後に「なにもなかったんだ」と言うとき、男が守るのは死者たちだ。

 男の思いは生を向いて生きることを選び取った者によって受け止められる。
 その意味はなんだろうか?

 男の思いを受け止めた者の静謐な表情で映画は終わる。

1997/12/11

アデルの恋の物語


  • 1975年フランス映画
  • 監督:フランソワ・トリュフォー
  • 撮影:ネストール・アルメンドロス
  • 主演:イザベル・アジャーニ/ブルース・ロビンソン/シルヴィア・マリオット


 今年は、フランソワ・トリュフォーの没後10年です。
 それを記念して、この'75年の作品が公開中です。

 冒頭の暗い海に浮かぶ上陸船に乗ったアデルの不安そうな表情が印象的です。この表情は、ラストのひっそりした真昼の黒人街を歩くアデルの放心し、どこか恍惚とした表情と響きあいます。

 ものを書くということ、一般的に言うと、ものを表現することの意味について考えさせられました。

 吹雪の中を、コートも食べるものもないのに、書くための紙を買いに行くアデル。
 そんなにまでして、書くことにこだわるのは、書くことが、アデルにとって、唯一の支えだからでしょう。

 ひたむきに、真っ正直に愛を捧げるアデル。その愛は、あまりにも強いので、相手に拒否されてしまいます。
 深く絶望するアデルにとって、書くことが唯一の救いなのです。そこでは、冷たい相手も、優しく微笑みます。

 アデルの書くことに対する執念には、凄まじいものがあります。
 愛ゆえに卑劣な行動を取ってしまったアデルは、そんな自分を恥じて、心優しい老婦人のいる下宿を飛び出して、救民院に転がり込みます。
 そこで、アデルは自分の書いたものが盗られないように、それらが入った鞄を枕にして寝るのです。

 ついには、心も体もボロボロにしてしまうアデルですが、死ぬまで書くことを止めません。

 孤独な愛の中で、悶え苦しみ遂には狂気に陥ってしまうアデル。
 そして、苦しみの中で書くことに唯一の慰めを見いだすアデル。

 そんなアデルの姿は、子供時代、母親から愛を拒否され、生涯愛についての映画を撮り続けたトリュフォーの姿と重なり合います。

 トリュフォー監督の没後10年を記念するに相応しい作品だと思いました。

1994/12/17

2016/03/26

夫婦善哉


  • 1955年東宝映画 8/6NFC
  • 監督:豊田四郎 脚本:八住利雄 原作:織田作之助
  • 撮影:三浦光雄 美術:伊藤熹朔
  • 出演:森繁久彌/淡島千景/浪花千栄子


 増村保造が溝口健二について論じるのに、谷崎潤一郎とパラレルに論じている。

 これら二人の優れた芸術家たちは女性という存在が持つ激しさを描こうとしたが、その過程で関西文化に惹かれていった。それは関西文化が力強く生きる人間たちを讃歌する文化だからなのだ。

 その通りの言葉を増村は使っているわけではないが、そのような意味のことを増村は書いている。

 関西と関東。それは単なる地理的な違いではない。
 関西と関東では光の質が違う。関東では光は穏やかだが、関西では光は明るく強く輝く。これは僕の主観ではなく、科学的にも証明されている。僕は陽光の違いが関西文化と関東文化という二つの異なった文化を作ったのだと思っている。
 関西文化に目を向けるならば、陽光の明るさ、強さが人間の持つ欲望を肯定し、そのことによって人間の生を輝かせている。

 溝口健二も谷崎潤一郎も関西に移り住んだのは、意志的なものではなく、関東大地震という外部的偶発的な要因に依るものだったが、彼らはそのことによって関西文化に直に触れ、関西文化の中で自分たちの表現を花咲かせた。

 『夫婦善哉』の主人公たちも一旦は東京に向かうが、熱海で地震に遭い大阪に戻る。地震はもちろん外部的偶発的なものだが、このエピソードは彼らがどんな人間なのかということを明らかにもしている。
 彼らは「貧弱な」光の中で育まれた関東文化の中では生きてはいけない人間たちなのだ。彼らは自分たちの生に率直に従い、泣き、喚き、怒り、暴れ、笑う人間たちなのだ。そんな人間たちが人間の欲望を悪と感じさせるような関東文化の中で生きていけるはずがない。

 彼らは客観的に眺めるならば、けっして幸せではないが。スクリーンに描かれる彼らの生は幸福感に充ち満ちている。
 彼らは「一緒にいたい」という欲望に天真爛漫に従って生きている。彼らはけっしてお金にきれいな人間たちではないが、最後の最後には「一緒にいたい」という欲望を優先させる。
 彼らの間にあるものは純愛としか名付けようがないものなのだが、この極めて関東文化的である純愛という言葉は誤解を招くだろう。
 純愛という言葉はしばしば欲望を否定するものとして解釈されるし、それが正しいのかもしれないが、ここでは純愛という言葉は欲望の全的肯定の上に成り立っている言葉なのだ。だからこの純愛映画は観る者を幸福感で包む。

 『夫婦善哉』は愛が精神的愛と肉体的愛に分離してしまっている関東文化的文化の中で生きる人間たちこそが観るべき映画だろう。
 欲望の全的肯定の上で成り立つ愛は限りなく優しい。

 だからラスト・シーン、降り頻る雪の中を寄り添うようにして歩く二人の後ろ姿は心に残る。

1999/08/06