- 1955年東宝映画 8/6NFC
- 監督:豊田四郎 脚本:八住利雄 原作:織田作之助
- 撮影:三浦光雄 美術:伊藤熹朔
- 出演:森繁久彌/淡島千景/浪花千栄子
増村保造が溝口健二について論じるのに、谷崎潤一郎とパラレルに論じている。
これら二人の優れた芸術家たちは女性という存在が持つ激しさを描こうとしたが、その過程で関西文化に惹かれていった。それは関西文化が力強く生きる人間たちを讃歌する文化だからなのだ。
その通りの言葉を増村は使っているわけではないが、そのような意味のことを増村は書いている。
関西と関東。それは単なる地理的な違いではない。
関西と関東では光の質が違う。関東では光は穏やかだが、関西では光は明るく強く輝く。これは僕の主観ではなく、科学的にも証明されている。僕は陽光の違いが関西文化と関東文化という二つの異なった文化を作ったのだと思っている。
関西文化に目を向けるならば、陽光の明るさ、強さが人間の持つ欲望を肯定し、そのことによって人間の生を輝かせている。
溝口健二も谷崎潤一郎も関西に移り住んだのは、意志的なものではなく、関東大地震という外部的偶発的な要因に依るものだったが、彼らはそのことによって関西文化に直に触れ、関西文化の中で自分たちの表現を花咲かせた。
『夫婦善哉』の主人公たちも一旦は東京に向かうが、熱海で地震に遭い大阪に戻る。地震はもちろん外部的偶発的なものだが、このエピソードは彼らがどんな人間なのかということを明らかにもしている。
彼らは「貧弱な」光の中で育まれた関東文化の中では生きてはいけない人間たちなのだ。彼らは自分たちの生に率直に従い、泣き、喚き、怒り、暴れ、笑う人間たちなのだ。そんな人間たちが人間の欲望を悪と感じさせるような関東文化の中で生きていけるはずがない。
彼らは客観的に眺めるならば、けっして幸せではないが。スクリーンに描かれる彼らの生は幸福感に充ち満ちている。
彼らは「一緒にいたい」という欲望に天真爛漫に従って生きている。彼らはけっしてお金にきれいな人間たちではないが、最後の最後には「一緒にいたい」という欲望を優先させる。
彼らの間にあるものは純愛としか名付けようがないものなのだが、この極めて関東文化的である純愛という言葉は誤解を招くだろう。
純愛という言葉はしばしば欲望を否定するものとして解釈されるし、それが正しいのかもしれないが、ここでは純愛という言葉は欲望の全的肯定の上に成り立っている言葉なのだ。だからこの純愛映画は観る者を幸福感で包む。
『夫婦善哉』は愛が精神的愛と肉体的愛に分離してしまっている関東文化的文化の中で生きる人間たちこそが観るべき映画だろう。
欲望の全的肯定の上で成り立つ愛は限りなく優しい。
だからラスト・シーン、降り頻る雪の中を寄り添うようにして歩く二人の後ろ姿は心に残る。
1999/08/06