2016/03/08

アサシンズ


  • 1997年フランス=ドイツ映画 5/22シネ・アミューズ
  • 監督/脚本:マチュー・カソヴィッツ
  • 撮影:Pierre Aïm 音楽:カーター・バーウェル
  • 主演:マチュー・カソヴィッツ/ミシェル・セロー/メディ・ベノーファ


 同じくフランス映画の暴力を扱った『ドーベルマン』と観較べるとこの映画の在り様が分かる。『ドーベルマン』が酔わせる映画ならば、この映画は観客を冷まさせる。

 『ドーベルマン』においては観客は主人公と一体化し(感情移入し)、カタルシスを得るが、この映画においてはそうでない。三人の主人公たちと観客は対峙するのだ、あるいは対峙させられるのだ。
 観客は椅子の中でリラックスしているわけにはいかない。観客は主人公たちの最良の意味での批評者でなくてはならない。その批評を通して浮かび上がってくる暴力はとてもリアルなものだ。道端に落ちている石と同じリアルさを持っている。

 そのリアルさこそこの映画の生命だと思う。この映画が与えてくれる感動は心を熱くさせる代わりに心を凍らせる。熱い感動があるように、冷たい感動もあるのだということを久しぶりに思いだした。

 主人公たちの目がとりわけ印象的だ。老人と青年と少年という三人のプロの殺人者たち。
 アルチザン(職人)であるという誇りを持っている老人は、狂気を秘めながらも、どこか人間らしい温かさを感じさせる目をしている。
 青年と少年は違う。徹底的に壊れている。青年の間違っても熱くならない冷めた目と、少年の鋭いナイフのような目。
 それら二人の目こそこの映画の魂だと言ってもいい。

 老人は二人の若者に自分の仕事を継がせようとするが、老人のその試みは初めから失敗が約束されている。いまの時代にはアルチザンは存在しない。
 昔はアルチザン意識は暴力をコントロールすることを可能にしただろうが、いまの時代には暴力をコントロールするものはなにもない。
 それをこの映画の真の主人公ともいえるTVが象徴している。

 機械のような正確さで人を射殺する、言い換えればアルチザン的技術を身につけた少年が人を射殺するのを捉え、社会に伝えるのが、TVだというのはなんという皮肉だろう。

1998/05/22